2009年11月26日木曜日

働く事の意味と価値

働くのは食う為である。いや、社会貢献の為である。
自己実現とかマズローの欲求の話しは聞き飽きただろう。

まあ、小生自信がそうであった様に実際に社会に出たばかりの時は、そんな事はどうでも良く、まあ卒業したら働く事が当り前。
親も親戚も友人も皆そういう価値感を持っているから仕事に就く。より有名な企業、大企業、安定した職、他人から羨まれる仕事・・・もちろん、「世の中の役に立つ研究の仕事がしたい。」「車が好きなので、自動車に関係する仕事に就きたい。」「人と接するのが好きなので販売や営業に仕事がしたい。」「大企業では無く、自分の能力が発揮しやすいベンチャーで働きたい。」etc
勿論、表面的には、自発的な要素によって選択して行く訳だが、はっきり言ってこんな自発的な動機なんていうものは、言ってみればファッションの個性見たいなもので、おとなしめの地味な服装が好きとか、派手でケバイ格好が好きとか、モード系とかコンサバ系とか。ブランド好きとか。価値基準の軸はそれなりに色々あるにせよ、所詮自発的な就職動機なんて、フッションの嗜好と同程度だと思っている。

ファッションなんていうものは、アフリカの原住民として生まれていれば、上半身裸で生活していても何の劣等感もない。洋服を着ているて生活すれば、むしろその方がおかしい訳で、こんな事に「正解」を求めるのは愚かしい行為である。

何故、そんな事が言えるのか。
例えば貴方が大企業の役員の名刺を持ってビジネスをするのと、名も無い企業のヒラ社員の名刺で活動するのとでは、貴方自身は、性格も能力にも何の違いは無くても、相手の反応は全く違うモノになる。
同じ様に、ファッションコーディネーターがコーディネイトした高級ブランド品で身を固め、カリスマ美容室で髪を整え、エステに通って作られた外見で人と接するのと、髪はボサボサで、上下汚れたジャージを着て、人と接するのでは、中身は同じ人間でも相手の反応は「必ず」大きく異なる。

即ち「働く価値」(意味では無く)は、相対的な物であると言える。相対的な価値に対して絶対的な意味付をする事に何の理由があろうか?
「服を着る意味」「ファッションの本来の意味」・・・・

「シューカツ」「コンカツ」とは良く言ったものである。
大抵社会人を続けていると、この「働く意味」を考える時期がくる。
「人付き合いの煩わしさ」、「他人を蹴落とす競争」、「無理解で無慈悲な上司」、「顧客を無視して押し付けられるノルマ」・・・
なんで、こんな想いをしてまで「働いているのか・・・」と感じる時期が来る。大企業、一流企業で働いていてもだ。
同様に、芸能人カップルの様に、お互い美男、美女で、お金にも困っていない人達の結婚は、むしろ失敗する確立の方が高い。「性格の不一致」「価値感の違い」「多忙によるすれ違い」「相手の浮気」・・・
なぜ、こんな想いをしてまで「結婚しているのか・・・」(笑)

就職するまでは採用する側の企業は、如何に自社が働き甲斐があって、成長性があって、公平で中立で、希望に満ち溢れているかをアピールする。求職者側は、如何に自分が役に立つ人間であるかを、色々と勉強してアピールする。綺麗ごとで着飾った「化かし合い」を繰り広げる。
それは言い過ぎだって?
では、一昨年までの様な「売り手市場」と昨今の「買い手市場」で、両者の態度が一変するのはどういう訳だ?しょせんお互いブランド品で固めて、婚活パーティの参加する程度の事。
若くて、美男、美女で、お金を持っていれば、黙っていても人は集まって来るし、逆なら来ない。建前ではお互いの本音を知りたいとか、性格が重要とか、そんな事を言って見ても、所詮、それだけの事だ。小生も採用担当の面接官を務めた事があるが、できる限り本音で話そうと挑んでも、やっぱり本当の会社の実態なんてさらけ出す訳にはいかない。残念ながら・・・

面接官:「うちの会社って対外的には、結構良い会社なんて言われているけど、中は惨憺たるものだよ。優秀な人間はどんどん辞めていっちゃうし、トップは自己顕示欲が強くてわがまま放題。部門は縦割でいつもイガミあっている。
役員連中なんかも、如何に上手く切り抜けるか保身ばっかり考えていて大きな手を打たない。そんなんだから若手も皆やる気を無くしていてね~そうれでもウチの会社入りたいの?」

求職者:「はい、実は私も出来れば仕事なんてしたくないんです。働くとしても、もっと時間を掛けて自分探しをしてから働きたいんですが、現実問題なかなかそうもいきません。親の期待もありますし、親戚や周囲の目もありますから、それに新卒で正社員になっておかないと、いざ働きたくなっても、そうそう良い仕事にはつけないでしょうから、御社なら知名度もありますし、それなりに安定していると思い希望しました。
もちろん、その中でもできれば遣り甲斐がある仕事をしていきたいとは思いますが、そもそも働いた事が無いので、遣り甲斐のある仕事がなんであるかなんて解りませんから。確かに、会社入れば嫌な事も一杯あるんだろうな~とは思いますよ。上司に媚売るなんて柄じゃないですし。
でも、それはどこの会社だって似た様なものじゃないですか。だったら御社の様に、知名度、規模も、安定性も充分な会社に入った方が何かと良いと思うんです」

むしろこういうやり取りをした方が、よっぽど建設的な気がするんだけど・・・・

さて「働く事の意味」、とか「結婚する事の意味」とか言った場合の言葉の重さに比べて、実際に繰り広げられる「シューカツ」「コンカツ」の「軽さ」ときたらどうであろう。
「シューカツ」なら採用する側も、求職側も当人達は大まじめの死活問題と捉えているであろう事は確かなのだが・・・
そして「働く事の価値」が相対的なもとして評価される現実に対して、「働く事の意味」は絶対的なものとして昨今「ありがとうをいっぱい貰う為に働く」とか「仕事を通じて社会貢献をする」とか、定義されてしまう事に小生はなんとも言えない気持ちの悪さを感じてしまう。
結婚式で誓うあの恥ずかしいセリフに似ている。結婚式で、誓いの言葉を宣言しているカップルに向かって「そんなワキャね~だろ」とヤジを飛ばすには相当な勇気が居るが、現実は・・・と言ったところだ。

ところで、この話、当初は就職の選択なんてファションの選択と大差ないと書いていたのに、途中から「結婚」に話しをすり替えた。別に深い意味は無く、学生の頃の恋愛に大層な意味など無く、ある種本能の赴くままに・・・に近い状態でありながら、失恋とか、不倫とか、色々あって後、いつのまにか「結婚とは・・」見たいな、多少なりとも文学的な意味合いを探すのと同じ様なもので、学校を出たばかりの就職活動なんて大した意味も意義も無く、その後社会人として経験を積んでくると「仕事とは」とか「働く意味とは」とか考え出す。という意味で話しをすり替えただけである。

名物経営者が、紆余曲折あったうえで悟りの境地の様に発する「働く事の意味」と、キリストやらブッタなりの宗教家がたどり着いた境地を原点とする「誓いの言葉」。それと、ごく普通の一般人が感じられる範囲とのギャップこそが小生が感じる気持ち悪さなのかも知れない。いや偉い人の言葉に感銘を受ける事は出来ても、現実とのギャップ感。いくら人から感謝される仕事がしたいと考えても、現実としては、給料や労働時間や世間体の方を優先してしまう。
ちなみに環境が悪いから「感謝」されないなどと考えるのは大馬鹿者である。

で、小生何が言いたいかって?
無理に「働く事の意味」なんて考えるな!と言いたい。どんなに現実に悩まされていても「偉い人」の言葉に感銘を受けてそれに流されたりしなさんな!!
恋愛や結婚に高尚な意味や意義なんて持ちこむとかえって失敗する。

働いている(働く事)の現実と「自分を客観的に見つめて磨いていく」姿勢の方が遥かに意味がある。
それは単にスキルアップなどという次元では無く、人間としての成長の事であり、仕事でも恋愛でも結婚でも同じ事だ。

偉い人の言葉が「10」とするならば「10」を求めて努力すると必ず迷う。憂う。「10」を知って、「10出来る」と勘違いするのは破滅への始りだ。しかし自分が「1」である事を知り、「1.1」を目指す事には悩みはあっても迷いは無い。それは周りからの相対評価としての成長では無く、自分自身の絶対評価で計る。

そう考えれば「働く事」も手段でしかない。
「1.1、1.2、1.3・・・・2、2.1、2.2・・・3・・4」そうしていつのまにか「10」になった時に、偉い人の言葉を真に理解する事が出来るかもしれないし、自身が別の境地を切り開いているかもしれない。コンビニのバイトでも、大企業の役員でもこの考え方をしている限りは成長できる。

自分自身の絶対評価をするには、自分の中に「価値基準」が無ければ無理じゃないの?と考えた貴方は賢い。
でも、「価値基準」なんて難しい事考えずに、「如何に自分が生きる」のが結果ハッピーかという事を考えれば良い。ただし、

「ヒルズに住んで高級車に乗って、周りから褒め称えられる。」
「ビンボーでも南の島でのんびりと自然に囲まれて暮らす。」

では無く、もっと人間として深く内面に対して「如何に生きるか」を考える。
それは同時に「如何に死ぬか」と同様の意味を持つ。
自身に対しての死生観レベルの問い掛けだと言って良い。
なんだか難しくなってきたが、一言で言うと「自分はどうありたいか」であり、人間という生き物が、その思考においてしか「Happy」を認知できない以上、それら周辺の事は「ファッション観」から「結婚観」「仕事観」に至るまで、他人の評価に振り回されている限りは何も得られず、結局は自分自身の中に確固たる基準を持つしかないという事だ。

しかし「無理にサラリーマンしなくても、南の島で・・・」サラリーマンは自分らしくなくて、南の島が自分らしいと考える人は失敗する。
サラリーマンの自分が「1」ならば、南の島なら自分「10」になると勘違いするのでは無く(他力本願)、
サラリーマンの自分が「1」ならば、南の島に行く事によって「1.1、1.2・・・2・・・3・・」と自己成長を求めるのであるばあれば良い。
但し、環境が自分を変えてくれると考えるの間違いであり、甘ったれだ。

なんだか脈略が無くなっが、甘ったれた方々を見ていると「働く意味」なんて考える暇があったら、もっと己と向き合え!
と、たまには偉そうに言ってみたい。

2009年11月13日金曜日

日本の起業家って本当にベンチャー?

今週の日経ビジネス紙(11.9号)のタイトルは、「今こそ起業資本主義~立て、日本の草食系ベンチャー」というもの。
草食系ベンチャーとはなかなか上手い表現をするな~と関心したのだが、肝心な記事で紹介されている草食系は2社に留まり、後はインドや、アメリカのベンチャーの紹介と、ベンチャーの支援体制の違い。と、内容に関しては正直もう何百回と目にして、耳に聞いた内容で、この手の話しの結論は、いつもの日本はベンチャーを育てるマインドや制度が不足しているで終わり。
せめて、設立目的や、お金に関する拘り度、資金集めの方法、車やファッションに対する意識など、仮説立てした上で、調査を行い。時系列で企業家達の意識が如何に変化してきているのか?草食系増加のファクトと、それに基づくもう少し深い洞察が欲しい。その上で、今後のベンチャー育成はこうあるべきではないか?という提言が欲しい。


さて、何故日本からは「Google」や「Amazon」が生まれないのか?「ホンダ」や「Sony」だって昔はベンチャーだったではないか?
こう言った話しは、この記事に関わらず、数年前から至る所で議論されている。
政治家、官僚、財界人、成功した起業家、学者、評論家、マスコミといったいつもの顔ぶれが揃って・・・
でも小生も、走り出したばかりの起業家のはしくれとして言わせてもらえば、正直ピンと来ない。
確かに、ベンチャーを取巻く環境として、色々とハード面で見直す事。VCの充実や、国の支援(エンジェル税制など)、融資制度の見直しなど、取組むべき課題は多いと思う。しかしそれらの提言が、実行されたからと言って、日本から「Google」や「Amazon」規模に育つベンチャーが生まれてくるとは、とても思えない。

確かに、この問題を考えた時に、働く事に対しての意識の違い。しいては教育環境、社会環境の違いは非常に多くのウエイトを占めていると思う。
但し、こういった要因は、それこそ「Google」「Amazon」規模の成功事例が出てこないとなかなか変化しないのではないかとも思える。
社会環境が悪いから、育たないのか。育たないから、環境が変わらないのか。という鶏が先か卵が先かの問題の様にも思うが、ライブドア事件が、ベンチャーは「胡散臭い」「虚業」「拝金主義」とイメージを社会に植え付け、一層社会環境がベンチャーに対して閉じた環境になってしまった事を考えると、逆説的だが、やはり一つのムーブメントとして形になるものが生まれ、社会に認知されない限り難しいのではないかと考えてしまう。

この点を考えると、日本におけるベンチャーの位置付け、定義そのものに疑問符がつく。
日本で一般的に「ベンチャー」と認知されているキーワードは「新技術」「アイディア」「他国模倣」などが浮かぶ。

1.「新技術」はバイオやデバイス、ロボットや、IT技術などの先進性のある技術シーズの事業
2.「アイディア」は、技術的な先進性は認められないが、独創性を持ち、今まで誰も気づかなかった分野の事業
3.「他国模倣」は、あまりピンとこないかも知れないが、米国で流行したITサービスなどをいち早く日本で展開する事業

この三点でいうならば、実は日本で一番成功しているのは「他国模倣」だろう。「ブログ」や「ネット広告」「ソーシャルネットワーク」「EC(ElectricCommerce)」など、いわゆるIT系のサービスで、米国で流行したものを、日本でいち早く取り入れた事業。(先進性も独創性も認められない)
日本のベンチャーの成功例として取り上げられる企業。「楽天」や「SyberAgent」「Mixi」などをイメージすると早い。
1.「新技術」や2.「アイディア」の事業は、どうしてもニッチマーケットがターゲットとなっている為、スケール面での限界点が直ぐに来てしまうことが多い。
しかし、それなりに日本で成功している「他国模倣」においても、「模倣」であるが故、国内市場に留まってしまう。この意味では、そもそもの問題提起である、日本から何故「Google」や「Amazon」が・・・に関して、スケール面においてこちらも、既に回答ができ上がってしまっている。

即ち、日本のベンチャーを考える上で、決定的に欠けてている要因は、事業ドメインがそもそもスケールが求められる領域に居ない。という事なのだ。
「ホンダ」や「Sony」を考えた時に、確かに「新技術」や「アイディア」「他国模倣」全ての要素を持って立ちあがったが、戦う土壌がオーディオ、家電、バイク、自動車といった既に大きな市場が求められるメインストーリムにおいて勝負を挑んでいった。という事実が、今の日本でベンチャーを検討する際の観点から抜け落ちてしまっている。もちろん当時の日本の社会環境。即ち、低賃金、円安、労働意欲、勤勉性、潜在的技術力などの要因がそれを可能にしてきたという点では、現在は当時とは比較にならない程、変化してしまった。

さて、一方の「Google」や「Amazon」において、その収益を生む事業のドメインを考えると、その市場におけるコンペチターはよく言われる様な「Microsoft」や「IBM」、日本ならば「富士通」や「NEC」の領域では決してない。
(ちなみにSalesForceのコンペチターは「IBM」「富士通」「NEC」である。(面白い事にIBMは一部で業務提携する事はあってもSalesForceを売る事は無いが、富士通やNECといった会社は、いち早く「売る」事を表明してしまった。日本企業の戦略不在ぷりは、本当に・・・))

「Google」ならば、その収益の多くは、広告収益であり、コンペチターはメディア(TV、ラジオ、新聞、雑誌)もしくは広告代理店である事は少し考えれば解る。「Amazon」であれば、その本の販売が収益の中心を占め、コンペチターは、書店、流通(卸)、である。
この二社が、実際コンペチター達に与えた打撃は計り知れないものである。日本でも、マスコミや広告代理店、書店が窮地に立たされている事実と無縁では決してない。もともと大きな市場性の認められるメインストリームにおいて勝負しているのである。
「ホンダ」や「Sony」が当時の日本の社会環境を武器に既存のオーディオメーカーや、家電、自動車、バイクメーカーに挑み勝利した様に、近年の米国のベンチャーはITを武器にメインストーリームに打って出て勝利をおさめているのだ。

しかるに日本の場合、いつのまにか起業家側も、育成側(VCや国など)も、ベンチャー=ニッチマーケットであり、「新技術」や「アイディア」「他国模倣」に出資、投資するものという固定観念が出来てしまった。起業家も決してメインストリームに打って出る様な事を考えないし、周りもそんな与太話しは支援しようとは思わないだろう。


実は、本来、日本においてなら「トヨタ」や「Panasonic」の事業領域に打って出て、打ちのめす位の意気込みこそが本来求められるベンチャースピリットであり、その為の武器が今の社会環境において何になるか?という事こそが真面目に検討されるべきではないのか。
「Google」や「Amazon」だって、展開するスピードの速さは、「ホンダ」「Sony」の時代とは比べ物にならないが、一番最初に被害を受けたのは、米国のメディアや書店であったはずだ。

自動車や家電は日本の基幹産業でありながら、おかしな事に、これらの企業が今怯えているのは新興国のベンチャーに対してでる。

本来であれば、日本のベンチャーこそがそれを考えるべきで、大きな市場での新陳代謝こそが、その国の産業活力となる。
国が考えるベンチャー育成も、この点をもっと真剣に考えるべきである。
「トヨタ」や「Panasonic」を打ちのめす支援を・・・・だ。

そう考えなければ、日本から「Google」も「Amazon」も決して生まれる事は無いであろう。
既存の大企業の衰退とともに日本経済は没落していく事になる。