2009年12月23日水曜日

歴史を直視できない日本人

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」先週で第4回「日清開戦」が終わった。

「坂の上の雲」は元々、原作者の司馬遼太郎はこの小説のドラマ化を嫌っていたと言われる。日清、日露といった周辺国との戦争が題材にされており、同時に当時(1972年初版)、まだ一般的には名将と思われていた乃木希典を徹底的に無能な軍人として描いたりと、ドラマにしてしまうともう小説の枠を超えて、色々な物議を呼んでしまう事を恐れたのであろう。
そうで無くても司馬遼太郎の小説は、あまりにも広く読まれた為「司馬史観」と評され、一部からは微に入り細に入り、ここが史実と異なると指摘を受けるハメとなった。様は左翼と右翼が、それぞれの立場で歴史を検証すると事実はこうであり、司馬の記述は間違いであるから価値が無い。と騒いだ訳だが、そもそも「歴史小説」なんで、目くじらを立てる様な問題でも無いのだが・・・

ただ、司馬遼太郎自身が、小説を各時に膨大な資料を読み、現地に足を運び、それらの情報を元に大局的な時代背景を描き、その時代背景の中で主人公の行動がどうであったか。どの様な思考原理で行動したか表現するという手法を取った為、読み手に対して、小説としてのエンターテイメントでは無く、その当時の歴史そのものが如何にも記述されている通りだったかの様な錯覚を産んでしまうのも確かだ。

さて、話しを戻してドラマ「坂の上の雲」だが、やっぱりNHKだけあって、予想どおりというか、わざわざ原作には全くない表現を加えてまで、色々と気を使っている様で・・・

大河ドラマなんかも全部そうなんだけど、こういう行為は単純にエンターテイメントとしての「面白さ」を削いでいるだけだ。ドキュメンタリー番組でものに、何にそんなに気を使うのか?(まあこの国の事情というやつがそうさせるのだろう。)


司馬遼太郎の作品で言えば、石田三成を主人公とした「関ヶ原」や、大坂の陣を描いた「城塞」では、徳川家康は悪逆非道の限りを尽す(笑)。それも解りやすい虐殺などでは無く、陰謀、策謀の限りを尽くして狡猾に大坂方を追い詰め陥れて行く。この辺はやっぱり作者が大阪生まれという事で贔屓を感じてしまうのだが、それでも、作者は歴史的意義として大坂方はその役目を終えるのは当然であり、徳川政権の必然性を認めている。諸大名が「利」を求めて家康に付くのも当り前だし、大坂方をドン・キホーテだという表現もしている。
このあたりが司馬の作品が合理主義的と言われる所以であり、小生も同氏の作品が好きな理由でもある。
その中でエンターテイメントとして、自分達なりの義の追求であったり、武士として死を如何に飾らん。という登場人物達を輝かせるには、徳川家康の陰謀をより強烈に表現する必要もあるだろう。

司馬遼太郎の小説の本質は、当たり前なんだが正しい歴史認識などでは無く、その時代背景から、歴史上の英雄達の行動を作者が独自に解釈し「男子の一生」として爽快に描いている点ではないだろうか。
体制を壊す側の「竜馬がいく」と反対側の「燃えよ剣」を同時期に書いていおり、「新選組が殺人集団だったから評価できない」とか、「河井継之助が結果として何も成さず、長岡の街を戦禍に陥れたから「峠」は駄目」とかそういう歴史的評価や、歴史観でついつい評価してしまいがちになるのだが、そういう事とは全く別次元の話しとして、読み終わった後に「男の生き方」として、大いに共感してしまう所こそ同氏の作品のエンターテイメントとしての本質があると思っている。(共感すると言うのは、小生の勝手な感想で、全く共感できなかったという軸で作品を評価するのであれば正しい)

歴史自体は偶然が重なった必然であって「もし武田信玄が後10年生きていたら」とか「織田信長が・・・」とか「ミッドウェー海戦で勝利していたら」なんて事は考えても仕方の無い事であり、逆に歴史的な英雄でも、生まれる場所や時代や立場が違えば、奸雄であり、単なる犯罪者であったかもしれない。名もない一市民だったかもしれない。
歴史的評価や歴史観というものは、それほど無意味なものである。あえて言わせてもらうなら、それらは歴史小説を読む際のスパイス位にしかならない。タバスコなり、胡椒なり、好きにすれば良い。
もし司馬の小説に書かれている徳川家康の行為がすべて事実だったとして、徳川家康は犯罪者である。と現代人が家康を裁く事はあまりに馬鹿げた行為だし、裁かない対象が家康であるなら異議を唱える人も居ないだろう。(旧日本軍や戦争指導者であれば、裁かない事に意義を唱える人が一杯いるという意味で)

例え話しとしてだが、「城塞」を徳川家康=周辺某国、豊臣大坂方=日本として、現在の外交に当て、現代小説として、読んでみても良いかも知れない。「微笑と恫喝」似ていなくも無いだろう(笑)。

日本の戦国時代は、あくまで同一民族どうしの闘争だから、論評するにも随分と気楽さはあるが、当時の日本人の世界観から見れば、世界=日本であり、世界=宇宙みたいなものであって、加賀の国、山城の国といった様に、戦国時代は各戦国大名という帝国主義者間の国家間侵略戦争であり、世界大戦だったと言ったって良いだろう。もちろん虐殺や、略奪も多く行われた。その観点でみれば、誰が悪で誰が善で、誰が誰に謝るべきなんて事は全く意味が無いし、ましてやお前は侵略した国の出身だから土下座しろとか、金払えと言われても困るだろう。オット、危険な方向に話しが行ってシマッタ。

しかし歴史認識を「自虐」「賛美」どちらの側にせよ、どちらの見方が正しいなんて論争は絶対の無意味であり、ましてや「正しい歴史認識」とやらを、子供や民衆に押し付ける事はとんでもなく下衆で、傲慢な行為だ。そんな事は、せいぜいエンターテイメントとして、「俺は家康派だ」「うんにゃ真田だ」といって酒の摘みに楽しめば良い次元の話しなのだ。

その中におても日本人と言うのは、過去一定レベルにおいて、歴史観や英雄賛美に留まらず歴史から人間や物事を捉える事をしてきた。その代表が「平家物語」であろう。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」

他国の軍記物にありがちな英雄伝でも、勧善懲悪でも無い価値観を伝えてきた。
その典型が「諸行無常」という概念である。

これは一定の価値観として常に日本人の心の中にあった様に思う。
例えば有名戦国武将の辞世の句の多くには、「夢」という言葉が出てくる。

上杉謙信:「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒」
豊臣秀吉:「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」
徳川家康:「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
(ちなみに、小生は句でいうならば秀吉が一番冴えていると思う。)

また、織田信長が好きだったと言われる能の「敦盛」も「平家物語」がベースとなっている。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

自身の英雄賛美でも、滅びの美学でも無く、一種虚無的な感覚として現世の事を「夢」(儚いもの)として捉える感覚である。
別に当人達は厭世的な世捨て人でも何でも無いのだが。

日本人が持っていたこの様な感性は、ロジカルシンキングの基本にも近い感覚で、物事を善悪、表裏、といった人間が作り出した観念論では無く、自分自身や、物語の被対象者から離れ第三者的な視点から、人間や、事、物、の変化(繁栄や衰退や滅亡、人の生死、もののあはれ、儚さ、可笑しさ、虚しさ)を捉えるという、ある種変わった感覚を持っていた。弁証法的と言うのかもしれないが、日本の場合、知識人の学問では無く、ある種の一般的な感覚として持っていた様に思われる。
この感覚というのは、自分達の歴史を美化する事とも、自虐として卑しめる事とも全く違う物である。
(江戸時代になって、体制を維持する為の方法論として儒教が取り入れられ、忠義や忠孝を強く説かれ勧善懲悪的なストーリが持て囃され、更にはそれが戦前まで、「天皇陛下バンザーイ!」的に国民鼓舞の為に悪用されてしまう事になった。)

いったい現在の日本人ときたらどうだろうか?
「歴史」という言葉が出て来た時点で、教科書どころか、エンターテイメントとしての小説、ドラマまでもが窮屈な史観とやらに囚われてしまっている。「反戦平和」とか「愛」とか、薄っぺらなヒューマニズムやイデオロギー、他国への遠慮の為に、本質的な面白さをすら見失い、少し別次元だが学問としての「歴史」からも本質を「学ぶ」事が出来なくなってしまっている。(各種御用学者さん達のお陰で?)

歴史というものは、その対象が自国のもであれ他国のものであれ「過去」を現代において裁く為にあるので無い(それは愚行、蛮行というものだ)。そこから学び、現在、そして将来に対して何をしうるのか?に、全ての価値がある。アフガン、イラク、ウィグル、チベット、テロ、核兵器、独裁、搾取、不況、差別、環境、etc
日本人が本当に歴史を学ぶのであれば、なぜ今この瞬間も行われている蛮行を止める手立てを考えないのか?(中国人や米国人を憎めという意味では断じて無い)

くだらない「史観論」に捉われ、思考停止に陥る位なら、平家物語的なエンターテイメントの方が遥かに人々に役立つもので価値が高いのでは無いのか?とつくづく思う。

2009年12月17日木曜日

「KPI」や「見える化」なんてやめとけ(貴社の場合に限り)

「戦略じゃなくてノルマでしょ」なんて事を書いたが、どうも最近新手のノルマが流行している模様。

その昔BSC(BalancedScoreCard)の流行を契機に、CSF(CriticalSuccessFactor)、KPI(keyPerformanceIndicator)なんて言葉が随分流行した。
BSC自体は、狂牛病の騒ぎの沈静化とともにあまり聞かなくなってしまったが???(笑)
KPIという言葉だけは一般化し、ビジネスマンであれば知らぬ人もいない程、色々なところで使われる様になった。

さて、売上、利益という結果数値だけからの管理を脱するという意味では、BSCブーム後は「見える化」とか「経営ダッシュボード」「プロセス管理」とか色々表現こそ違いはあれ、結果数字だけを見るのでは無く、多角的に経営を左右する因子を的確に捉えオペレーションしていく。という事は一般的になってきたと思う。

その中で、「BSC」や「見える化」といった表現方法こそ差異があれ、KPIだけは言葉として生き残ったというのは何となく納得できるし、こういう考え方自体は酷く真っ当なもであろう。

さて貴方の会社で、以下の項目の内容は正確に把握できているか?

・営業マンの一ヶ月の平均訪問回数
・クレーム発生件数
・一顧客あたりの平均単価
・間接業務の労務時間
・Webや電話からの問い合わせ件数
・従業員の平均労働時間
・品切れ発生率
etc

かなり適当に、それっぽい項目を並べてみたが、こういった項目の内容の結果が、BS/PLに結果数字として載るのであって、結果に至るプロセスをしっかりと管理する事こそが重要だ。

で、これに目を付けたのがIT屋さん(笑)。とにかく「KPI」大好き!(笑)「見える化」ソリューション!(笑)


あるSFAベンダー(今や飛ぶ鳥を落とす勢い)のコンサル責任者の方と話しをした時に「KPIでしっかり管理すれば必ず業績が上がる」と強弁されて、目が点になってしまった。
こういう方って、なんと言うか、頭は良さそうなんだけど「リアリティー」が無いのよね。
自分自身が血反吐いて業績を向上させて来たとか、何かを成したとか、そいう経験、体験というか・・・(別に血反吐を吐く必要は無いんだけど)だから平気でこんな事言っちゃう。

いや、成長市場にいたり、同社の様にバズワードに乗ってガンガン売れている時は良いのよ。KPIでも。
っていうか、KPI管理のお陰で上手く行っていると信じる事ができる。という方が正解かな?

いいかな。上に出した様な指標はあくまでも指標でしかないんだよ。
訪問件数をカウントされた所で、実際には「で、どこに訪問する先なんてあるのよ?」ってなるよね。それでも無理に、訪問件数未達の者は減給だ!ってやったら、顧客の迷惑顧みず、訪問しまくって顰蹙買うのが落ちか、ウソ訪問し始める。確かに営業の場合、「兎に角、人に合う、会えばなにかある。合わない限りは何も生まれない」これは確かにその通りだし基本なんだけど、一生懸命顧客の事を考えて有効な提案を持って行き、有難がられる1回の訪問と、ノルマの為に、半ば無理やり押しかけての10回訪問。どちらが業績にインパクトを与えるのか?って議論もあるよね。こういうのは常識的に状況状況で都度判断すべきものなの。

野球でいうなら、BS/PLはチームの勝敗の数と言って良い。最終的にそれでチームの優勝が決まる。
これに対して、こういう指標はチーム打率や防御率、奪三振、ホームラン数、出塁率、etcなのだ。

これをリアリティーの無いIT屋さんの発言で例えると、「チーム打率3割、防御率2点、チーム本塁打200本・・・KPIを定めて、しっかり管理すれば間違い無く優勝できる!」って言っている様なもので、小生が固まってしまう理由も解って頂けるだろう。
チーム本塁打数が最重要目標だ。本塁打を打てばボーナス弾むぞ!ってなったら、バントなんて誰もしなくなるよね。確かに本塁打は多いに越した事は無いけど、バントや四球選択だって状況によってはとても重要。その逆も然り。

これは殆ど絶望的な勘違いなんだが、結局「KPI」=「目標」としてしまうから駄目なんだ。
KPIはindicator=指標であって決して目標=targetでは無いのだ。にも関わらず、KPIを目標だと思ってしまっている人や企業があまりにも多い。

だからと言って「指標」が必要無いなんて事は無い。チームの施策として、本塁打数の向上を目指す。その為にホームランバッターをトレードで呼んできたり、特別な練習をする。その上で方針がどこまで施策が有効に浸透して実行されているかどうかを計る必要はある。効果が出ていないのであれば、やり方を変える必要がある。それ以外の指標だって出来る限り多くの項目で、詳細な情報を、可能な限り迅速に把握できた方が良い事は言うまでもない。

漫然とマネジメントしていれば、何時までたっても変わらない。注力する分野を絞る事は重要だ。更にただ絞っただけ、例えば重点顧客からの売上を○%UPさせる見たいな営業施策を出しても、実際にそれだけでは実行される可能性は低いのも言うまでも無い。

どうすれば重点顧客からの売上をUPできるのか客観的、合理的に徹底的に考え抜き実行しなくてはならない。その結果上手く進捗できているのか?そうでないのか?あくまで「仮説の検証」為の道具がダッシュボードの様な機能で、それを計る項目がKPIなのだ。
打率や防御率など色々な指標が測れたところで、イコール強いチームができる訳では無いんだヨ。

にも関わらず、「重点顧客からの売上を○%UP」で、ロクに仮説設定もせず「KPI=重点顧客への訪問件数」みたいな事を平気でやってしてしまう。
そして、結果は、
「重点顧客の売上が全然伸びてないし、訪問も出来ていないじゃないか!バカモン!」(経営者)
「そりゃ、出来れば苦労しね~よ」(現場)
で終わり。
現場にしてみれば「だったら見せるか!ボケッ!」となる。普通に。

KPI・・・今日も、ピーピー、言わしたろかっ!

IT屋さんだとしてもコンサルタントを名乗るのであるならば、正しい仮説設定を支援した方よっぽど本質的だとおもうのだけどな~まあ、そんな事してしまうと肝心なシステムがいつ売れるか判らなくなるから無理か・・
KPIで管理されているし(笑)