2010年9月30日木曜日

デフレの原因はGoogle?

久々に「朝まで生テレビ」を見た。と言っても朝までではないのだが・・・
この番組を見るのは何年ぶりだろうか?記憶に無い位久々である。

もちろん「尖閣」の問題もあって興味本位で見た訳だが・・・
この番組が始まった当初は、他にこの手の企画の番組もなくちょこちょこ見て居たんだけど、知識人だか評論家だか知らないが、結局は自分の中の結論ありきでその為に自分の都合の良いデータやら論理だけを引っ張り出して来て自分が如何に正しいかを主張する。自分の主張を正当化する為の知識で武装するなんて下らな過ぎる。勿論反論する側も同様だから全く収拾が付かないし結論や発展的な議論になどなり様も無い。ファシリテータの能力の問題以前に、まあパネリストの選定というか、そもそもこんな連中に知識人とか評論家だなどと「称号」を与えてしまう世間がアホなのかも知れないと若いながらに思っていた。
まあ、真面目な討論番組では無く、バラエティと思って見ればまあこんなものかもしれないが。

さて、今回放送の「朝まで生テレビ」(9月24日(金)放送)のテーマは「日本を元気にする薬はあるのか?」で、「尖閣」に関しては急遽組まれたもので、経済が中心のテーマ。「尖閣」のパートはどうでも良かったのでスルーして、本題の「日本を元気にする薬はあるのか?」から・・・・しょっぱなは日本の企業はマーケティングが駄目見たいな話しが出て、とりとめもなく、次は「日銀はもっとお金を刷れ」とかそんな話しが出て・・・・・・・・・で、もうあまりの酷さ(いやむしろバラエティとしては抱腹絶倒か?)に、テレビを消してしまった。

ただ、最初に田原総一郎氏が切り出した「日本は円高でお金も強い。技術力も総じて高い。人材も他の国に比べれば優秀で良く働く。なのに何でこんなに酷いのか?」(←詳細発言に関してはうろ覚えなのでご容赦)という問い掛けは非常に良かった。この切り出しに対して、直球で回答できるパネリストは居なかった。なのでマーケティングがという超ミクロな話しから始まって日銀が・・・見たいなマクロの話しに話がブレまくって。。。。

小生が一言で言うなら、日本という国の構造(システム)が引き起こしている問題。と言う。

さて無知な小生が経済学の観点から現状を考えるのは難しいので、もっとミクロな日常から今のデフレを見て見たいと思う。デフレ下では言うまでも無く物の価値が下がっていく。物が高く売れないので給与が下がる。高い物が買えなくなるので・・・というのがデフレスパイラル。良く例えに出る牛丼。今では200円台で食べられる。ジーパンは1000円以下で買える様になった。(小生が学生の頃は安いのでも6800円位だった気がする・・・ちなみに昨日発表のサラリーマンの平均年収は407万で過去最低だそうだ)
例えば、1万円で売れて居た物が、1000円でしか売れなくなったら、そりゃ不況にもなる訳で・・・では、何で価格が下がるの?と言えば、安く作る(輸入する)事が可能になったから・・・同じ物が安く売られていたら、安い方を選ぶのは当然な訳で・・・・・おいおいおお前は小学生か?と言われそうな話しだが、高い物が買えなくなったから、安い物を買っている訳では無く、単純に見れば、国や企業が望む。望まないにせよ、新興国の発展、グローバル化などで、安く売る(作る)事が可能になってしまった訳だ。この議論はニワトリと卵では無く、明らかにこっちが先の話しだ。
何故なら当のユニクロも、ゼンショーも、ニトリもバンバン利益を上げている。対応できない企業が業績を悪化させてリストラに走っている訳だ。単純に円高や新興国の発展で製造の原価が下がっただけでは無い。今や日本の飲食店の店員の多くは外国人アルバイトだ。サービスの価格もグローバル化によって下がっている。

しかし、これは何も解り易い飲食、小売、製造の話しだけでは無い。サービスや娯楽を含めた、ありとあらゆる物の価値が下がっている事にちゃんと気付いているだろうか?よく「若者の○○離れ」という話しを耳にするが、これも一つの事象だろう。例えば、ここ10年で「プロ野球」の商品価値は激減してしまった。小生が社会人に成りたての頃(約20年前)は「プロ野球」は、ビジネスのコミュニケーション上の一つの嗜みでもあった。優勝チームを占うのは当然として、誰が首位打者を取りそうだとか、ホームラン王は誰だとか、職場や客先で1日1回はそういう話題があり、その会話についていけない事はかなりデメリットですらあった。それが今では地上波の中継すら無くなってしまうのだから驚く限りだ。これ程急激に価値が低下しているにも関わらず、選手や職員達の雇用と年俸を維持しようとすれば、球団経営は赤字になるに決まっている。
「車離れ」であれば、買うお金が無くなっているという説明も立たなくは無いが、「プロ野球」をテレビで見るのにお金が掛る訳では無い。(ちなみに昔の若者の多くは、お金が無い中無理なローンを組んで車に乗っていた・・・)

この例で見るならば森永卓郎氏の様なスウィート左翼が、雇用と、年俸を守れば景気が良くなるなんて言っているが如何に無茶苦茶であるか解って頂けるだろう(彼の場合は、解っていて商売として主張している可能性は否定できないが)。もちろんマーケティング云々の次元の話しでも無い。
「プロ野球」の例で見るならば「新興国の台頭」は関係ない。いわれる様に趣味の多様化(インターネット、携帯)かもしれない。もちろん「プロ野球」だけでは無い。プロ野球というキラーコンテンツの価値が下がった事は、スポーツ新聞の記事の価値を下げてしまった。ネットの普及は紙媒体の価値を下げたと同時に。知的生産物の価値もさげた。

・(情報の)媒体としての価値
・(情報の)希少性の価値
・(情報の)娯楽性の価値

ここ10年で価値が下がった物を列挙して見ると良い。「車」なんてまだマシな事に気付くだろう。
例えば・・・

・マス媒体の宣伝効果
・新聞、本、雑誌
・ソフトウェアなどの知的生産物
・コンサルタントのフレームワークやメソッド(笑)
・丁寧に商品説明をしてくれる店員の価値。
・卸売
・金融機関などの窓口業務
・アイドルの水着姿
etc

今までであれば、物の価値が下がるのは、技術革新によって生産技術が向上したり、代替えとなる技術が生まれる。普及段階で参入プレーヤが増えて価格競争が始まる。などが主因として語られてきたが、単純に「グローバル化によって人件費が安くなったから」では説明できない物も多くその価値が下げている。解り易い「情報」だけでは無い。映像技術とネットの発展は全く関係なさそうな「移動する事の価値」も下げる可能性が充分にある。車や電車、飛行機の運賃、旅行などの価値も下げてしまう可能性がある。
その多くはインターネット普及に伴う「情報のインフレ」がもたらしていると言える。またネット(IT)の発展がグローバル化を加速されたという側面もあるし、その逆も然りだ。
音楽家は元々パトロンからお金を貰って演奏を披露していた。音楽を奏でたり、聞く事が大衆化するとそれが興業になり、やがてレコードが開発されると、その情報をコピーして売る事でお金を得る事が出来る様になった。それがネット(IT)社会になり・・・ビジネスモデルというものは、当り前だが、社会環境の変化や、技術の発展により変化するものなのである。今は情報そのものの価値が下った為、情報をコピーして売る事の価値も低くなった。その変わりに、情報を共有する場を提供する者、情報を整理して欲しい情報に導く者の価値が上がった。
ちなみに小生は何も、一時期流行った「ネット進化論-ネットとは何であるか?」的な議論をしたい訳では無い。そんな議論は情報を伝えるデバイスという意味では「伝書鳩とは何であるか」を喧々諤々議論しているのと同じだ。

物の価値を下げているのは「新興国の発展」「グローバル化」だけでは無いのである。
「物自体の価値」(組み立てや加工の価値)と「情報の価値」この両方が複雑に絡み合い急激に下がりつつあり、今まで市場を支配してきた商品、サービスの価値を下げているのである。あらゆる産業はこの波から逃れる事は出来ない。
物作りが新興国にシフトしただけではない。既存の産業が持っていた価値をGoogle,Amazon,Appleなどがどんどん吸い取ってシフトしていると言えば解るだろうか。これは「代替え」ではない。まさにパラダイムシフトが世界規模、全分野で起きているのが今だ。既存分野の持続的なイノベーションでは対応できない。重要な事は「どうシフト」するか?だ。
出版社、広告代理店やレコード会社が苦しんでいる事を「リーマンショック」のせいだ。とだけ捉えるのは明らかに間違った見方だ。こう言い方をすれば誰もが解る事なのに、知識人(笑)とか政治家の連中は日銀のせいだとかで議論してしまうらしい。

今までの考え方の延長ではとても対応出来ない。発展を拒否しないのであれば、経営、国の在り方から変えなければならないのは自明だ。既存の産業保護だけに奔走しいればが衰退して行く流れは止めようもなく、小手先の金融政策ではどうしようもない。日本の強みはあらゆる面で無効化してきており、日本という国が作り出す付加価値の総和が下がっている(労働生産性)。

新しいパラダイムに併せて構造を変えるしかないのだ。にも関わらず、既得権益を守りたくって仕方のない連中が「構造改革は格差社会を生んだ。」などと根拠の無い情緒論で煽り、改革を拒否してばら撒きを煽った。例えるなら世の中の変わる現実が直視できない老人達(自分達の昔ながらの価値感を否定できない人)が見る人が少なくなってしまった「プロ野球」(既存の産業)を税金で保護して選手の高額年俸(正社員)を維持。それに選手も甘えて、皆で無理矢理今の構造を維持しようとして、新しい物にはお金が回らない。こんな姿が日本の現状だ。
(あくまでも例えで、プロ野球結構好きです。あまり見なくなりましたが)

これでは逆に格差が生まれるに決まっている。「既得権益層」と。「そうで無い者」との格差。
昔のこのブログで民主党が政権を取れば格差が広がると書いたのは、民主党の支持母体が既得権益層ばかりだからだ。

産業の新陳代謝を活性化させる為に、思いきった規制緩和。税制改革(消費税への移行)法人税の引下げ。人材の流動性確保(解雇の緩和)。ベンチャーの育成(直接支援する様な方法を取るとロクな事にならないので間接的に)。そしてなにより教育改革。ハッキリ言ってこれしか手はあるまい。(金融機関の暴走に歯止めを掛ける様な規制は必要だが)

伴う痛みはどうすんのかって?・・・・本当に公正なルールの元での格差なら不満は少ないだろうし、つい100年も遡れば日本人は食って行く為に、南米でも北米でも移住した。国内に居ても牛丼は300円出せばお釣りが来る。

ちなみに、「デフレ Google」でググったら・・・デフレの原因はGoogle的な記事は1個も無かった(笑)

P.S.
一部の人に小沢一郎待望論みたいなものがある。彼にはリーダーシップと志があり、その志を達するには権力が必要で、ある程度非常の手段(金集め)もあって然るべき。それをマスコミが極悪人の様に書き立てたから無知な大衆は・・・というものである。
特に根拠がある話しでも無いので都市伝説と一緒で「はぁ左様ですか。」としか言いようが無いのだが、個人的な見解を言わせて貰うなら、これはマザーズに上場した多くのインチキベンチャーの論理と一緒だ。「上場という目的を達成するには、粉飾も厭わない。」「顧客が満足しなくても良い。」・・・・本当に志のある人間は、こういう論理では絶対に動かない。断言できる。綺麗事を言っている訳では無い。確かに本当に志がある人間は、自分が泥をかぶる事を厭わない。泥をかぶるというのは秘書を差し出す様な行為では無い。全くの逆だ。こういう人間の思考は会社を大きくする事(権力を得る事)が絶対の目的で、理念も理想も後付けに過ぎない。小沢一郎からは過去に本があるだけで、日本をどう変えたいかのメッセージは何も無い。その政策の是非で評価するのでは無く、剛腕でリーダシップがありそう。志がありそう。とイメージで語るのもまた踊らされているだけという事では無いのかナ?

2010年3月26日金曜日

卒業しようぜ!

お隣、韓国が強い。バンクバー五輪のメダル数。サムソン。という事で「韓国に学べ」というワードをあちらこちらで見かける。なんでも経済産業省にも「韓国室」が出来たとか・・・・

あ~~あ。ま~た始まった。もうなんと言うかもうホントに「馬鹿の壁」に全速力で激突していく人達が後を絶たない。
そのうちサムソン出身の「韓流コンサルタント」が登場するのも時間の問題だろう。いや、もう居るのかな?
別に小生、サムソンの会計は怪しいとか、半国営企業だからとか、「嫌韓」を展開したい訳でもなんでもない。

ただ、はっきり言ってサムソンから日本の家電メーカとの戦略上の違いとは何であるか?勿論、オペーレーション上の「些細」な違いはあるだろう。意思決定が早い。とか、人材採用や活用方法が・・など、しかしこれらは本当に些細な違いでしかない。逆に日本のメーカ同士だって会社によって、その位の「個性」の「違い」はあるさ。で、済む。

極論言ってしまえば、馬鹿の一つ覚えの様に「良い物をより安く」で、やってきた日本の家電メーカが追いつかれ、追い越されただけの話では無いのか?この点に関しては、「いや、まだ日本のメーカの方が・・・」なんて事言う気は更々ないが、日本のメーカ自身が過去、歩んできた道では無いのか?
後発国のメーカに追い付かれる。追い越されるなんて当たり前過ぎる話で、この状態で一体何を学びたいのか?小生にはサッパリ解らない。凄く抽象的な表現だが、コーチが選手を指導していたら選手の方が上手くなったので、逆に教えを請うて競技で競う様な話しだ。
もうとっくに立っている土俵が違うのに、それが理解できないらしい。スポーツ選手に選手寿命がある様に、企業にだってそれはある。ただしそれは体力とか、気力の話しでは無く、ビジネスモデルの寿命だ。ピークを超えた選手は適切なタイミングでの引退をし、それこそコーチや、競技団体関係者、タレント、起業、会社員など第二の人生を選択して行く事になる。企業だって同じ事だ。にも関わらず、アホ(過ぎる)なマスコミを中心に「よきライバル」として切磋琢磨していく対象だと思ってしまっている。
IntelやAppleは新興国の企業を上手く巻き込みながら、荒稼ぎするビジネスを考え出した。それぞれ「半導体メーカ」、「パソコンメーカ」として、新興国の企業をライバル視して切磋琢磨してきた訳ではない。

この手の話は、別に今回始まった話しでは無い。トヨタが最高益を出せば、トヨタ本が流行り、トヨタに「学べ」の大合唱。トヨタ流コンサルが引く手あまた(笑)。ソニーが良ければ、「ソニーウェイ」「ソニー流」。
「○○流を取り入れる。」「トイレ掃除???」「野村監督に・・・」
いや政治だってそうだ、ニュース番組なんかでは必ず「アメリカでは」「ドイツでは」「フランスでは」とか出てくる。

兎にも角にも「学べ」-「学ぶ」が大大大好き。学ぶLove!

はっきり言おう!政治にしろビジネスにせよ、「学んで」なんとかなったのはもう30年以上前。
ちなみに「学ぶ」の語源は「まねる」から来ていると言われる。

さて、さて、では、どうするか?


答えは既に書いてある。


IntelやAppleは~の下り
>荒稼ぎするビジネスを考え出した。
「学んだ」では無い。もちろん、残念ながら「見える化」でも「トイレ掃除」でも無い。
「考えた」のだ。

小生の持論として、これからの日本を良くして行くには「教育」を変えるしか無いと思っている。
いつまでも「学ぶ」が中心にある教育では駄目。高度情報化社会になった現代において、残念ながら「学ぶ」の価値はどんどん下がって行く。この辺の事は最近になってようやっと著名人達が言いだした事なので詳しくは書かないが、「考える」訓練が圧倒的に足りていない。

残念ながら、自分の周辺50m位の事しか考えていない、見ていない、ビジネスマンが実に多い。もちろんお酒を飲めば、鳩山首相がとか民主党がみたいな話しが出るが、所詮、マスコミの受け売りを「持論」として語っているだけにすぎない。
本屋に行けば良く解る「○○したければ、○○しなさい!」「○歳からの○○」「何故○○は○○なのか」「女子高生ドラッカー???」・・・・
正直泣きたくなる・・・・女子高生に教えて貰わないと駄目なの?しかもドラッカーって・・・・

さて、思考方法として「なぜ5回」とか「ロジックツリー」とか、その辺が有名な訳だが、「考える」を深めて行くと必ず、
対象が大きくなって行く。ある些細な課題を対象にしても、グリグリとその真因を考えていると最終的には「社会全体」とか「国」とか「民族性」とか、途方も無く大きなテーマにぶち当たる。

例えば即興で、

①「何故、うちの会社の企画はヒット商品を生み出せないのか」
②「企画部が他社の後追いばかりやっているから」
何故?
③「担当役員が、直近の収益性ばかり見て居る為、冒険的な取組に反対する」
何故?
④「営業役員が強く。直ぐに数字になるものを求める傾向が強い」
何故?
⑤「上場したのをきっかけに、社長が直近の売上ばかりを気にする様になってしまった」
何故?
⑥「株主は自分が短期に儲ける事だけ考えて、長期的視点で企業を育てる事を考えていない」
何故?
⑦「株式会社の制度そのものが・・・」

※ちなみになぜ五回方式だと、分岐が無くMECEにならないので、ちと結構辛い。今回の様に、まずは、一度、ばーと頭の中で「何故」を繰り返したら、それを最初の「仮説」としてセットする。そしたら他の要因が無いか色々分岐しさせていく。一通り要因を出し尽くしたら、今度は真因となってそうな要因が、どの様な影響を与えているか逆に考えていく。グルグルと。
そうしていると、どの要因が一番のボトルネックになっているか?現実的に対応の取れる要因か?が解ってくる。駄目な人はロジックツリーを紙とかパワーポイントとかに作って一生懸命「漏れなく、ダブりなく」と呪文を唱えて穴埋しはじめる。そして「漏れなく、ダブりなく」で100点満点を取ろうとしてしまう。ハッキリ言ってそんな事はあまり気にしなくて良い。この事は文法ばかりを気にしている為、会話が全く駄目な日本の英語教育と似ている。これも「学ぶ馬鹿」の弊害だ。
ついでに対象を「何故、サラリーマンは大きく、重たい鞄を持って通勤しているの」とか、日常に広がっているちょっとした「何故」を考えると結構よいビジネスアイディアが生まれて来たりする。

話がそれたが、考える力を強化していくと、その対象がどんどん大きくなって行くのは理解して頂けるだろう。ビジネスコンサルをやっていた人が、ちょっと宗教系に走ってしまったり、政治評論や経済評論の方に行ってしまう事とも無縁ではなかろう。(とは言えそっちのプロでは無いんだけど・・・)
どうしても、物事の本質を見極めようとしていると、より大きなテーマに当たる。

それで良い。ワールドワイドにビジネスを展開しようとした時に、その事は非常に重要だ。
政治にしたって、結局は国民のレベルを反映しているに過ぎない。マスコミの垂れ流す、馬鹿情報に振り回されるか、自分で考えてしっかり投票できるかで、大きな違いを生む。

「Don't Study Let's Think」
「学ぶ」から卒業しよう!

偉そうでスミマセン。でも小生「あ~すっきり!」です。

2009年12月23日水曜日

歴史を直視できない日本人

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」先週で第4回「日清開戦」が終わった。

「坂の上の雲」は元々、原作者の司馬遼太郎はこの小説のドラマ化を嫌っていたと言われる。日清、日露といった周辺国との戦争が題材にされており、同時に当時(1972年初版)、まだ一般的には名将と思われていた乃木希典を徹底的に無能な軍人として描いたりと、ドラマにしてしまうともう小説の枠を超えて、色々な物議を呼んでしまう事を恐れたのであろう。
そうで無くても司馬遼太郎の小説は、あまりにも広く読まれた為「司馬史観」と評され、一部からは微に入り細に入り、ここが史実と異なると指摘を受けるハメとなった。様は左翼と右翼が、それぞれの立場で歴史を検証すると事実はこうであり、司馬の記述は間違いであるから価値が無い。と騒いだ訳だが、そもそも「歴史小説」なんで、目くじらを立てる様な問題でも無いのだが・・・

ただ、司馬遼太郎自身が、小説を各時に膨大な資料を読み、現地に足を運び、それらの情報を元に大局的な時代背景を描き、その時代背景の中で主人公の行動がどうであったか。どの様な思考原理で行動したか表現するという手法を取った為、読み手に対して、小説としてのエンターテイメントでは無く、その当時の歴史そのものが如何にも記述されている通りだったかの様な錯覚を産んでしまうのも確かだ。

さて、話しを戻してドラマ「坂の上の雲」だが、やっぱりNHKだけあって、予想どおりというか、わざわざ原作には全くない表現を加えてまで、色々と気を使っている様で・・・

大河ドラマなんかも全部そうなんだけど、こういう行為は単純にエンターテイメントとしての「面白さ」を削いでいるだけだ。ドキュメンタリー番組でものに、何にそんなに気を使うのか?(まあこの国の事情というやつがそうさせるのだろう。)


司馬遼太郎の作品で言えば、石田三成を主人公とした「関ヶ原」や、大坂の陣を描いた「城塞」では、徳川家康は悪逆非道の限りを尽す(笑)。それも解りやすい虐殺などでは無く、陰謀、策謀の限りを尽くして狡猾に大坂方を追い詰め陥れて行く。この辺はやっぱり作者が大阪生まれという事で贔屓を感じてしまうのだが、それでも、作者は歴史的意義として大坂方はその役目を終えるのは当然であり、徳川政権の必然性を認めている。諸大名が「利」を求めて家康に付くのも当り前だし、大坂方をドン・キホーテだという表現もしている。
このあたりが司馬の作品が合理主義的と言われる所以であり、小生も同氏の作品が好きな理由でもある。
その中でエンターテイメントとして、自分達なりの義の追求であったり、武士として死を如何に飾らん。という登場人物達を輝かせるには、徳川家康の陰謀をより強烈に表現する必要もあるだろう。

司馬遼太郎の小説の本質は、当たり前なんだが正しい歴史認識などでは無く、その時代背景から、歴史上の英雄達の行動を作者が独自に解釈し「男子の一生」として爽快に描いている点ではないだろうか。
体制を壊す側の「竜馬がいく」と反対側の「燃えよ剣」を同時期に書いていおり、「新選組が殺人集団だったから評価できない」とか、「河井継之助が結果として何も成さず、長岡の街を戦禍に陥れたから「峠」は駄目」とかそういう歴史的評価や、歴史観でついつい評価してしまいがちになるのだが、そういう事とは全く別次元の話しとして、読み終わった後に「男の生き方」として、大いに共感してしまう所こそ同氏の作品のエンターテイメントとしての本質があると思っている。(共感すると言うのは、小生の勝手な感想で、全く共感できなかったという軸で作品を評価するのであれば正しい)

歴史自体は偶然が重なった必然であって「もし武田信玄が後10年生きていたら」とか「織田信長が・・・」とか「ミッドウェー海戦で勝利していたら」なんて事は考えても仕方の無い事であり、逆に歴史的な英雄でも、生まれる場所や時代や立場が違えば、奸雄であり、単なる犯罪者であったかもしれない。名もない一市民だったかもしれない。
歴史的評価や歴史観というものは、それほど無意味なものである。あえて言わせてもらうなら、それらは歴史小説を読む際のスパイス位にしかならない。タバスコなり、胡椒なり、好きにすれば良い。
もし司馬の小説に書かれている徳川家康の行為がすべて事実だったとして、徳川家康は犯罪者である。と現代人が家康を裁く事はあまりに馬鹿げた行為だし、裁かない対象が家康であるなら異議を唱える人も居ないだろう。(旧日本軍や戦争指導者であれば、裁かない事に意義を唱える人が一杯いるという意味で)

例え話しとしてだが、「城塞」を徳川家康=周辺某国、豊臣大坂方=日本として、現在の外交に当て、現代小説として、読んでみても良いかも知れない。「微笑と恫喝」似ていなくも無いだろう(笑)。

日本の戦国時代は、あくまで同一民族どうしの闘争だから、論評するにも随分と気楽さはあるが、当時の日本人の世界観から見れば、世界=日本であり、世界=宇宙みたいなものであって、加賀の国、山城の国といった様に、戦国時代は各戦国大名という帝国主義者間の国家間侵略戦争であり、世界大戦だったと言ったって良いだろう。もちろん虐殺や、略奪も多く行われた。その観点でみれば、誰が悪で誰が善で、誰が誰に謝るべきなんて事は全く意味が無いし、ましてやお前は侵略した国の出身だから土下座しろとか、金払えと言われても困るだろう。オット、危険な方向に話しが行ってシマッタ。

しかし歴史認識を「自虐」「賛美」どちらの側にせよ、どちらの見方が正しいなんて論争は絶対の無意味であり、ましてや「正しい歴史認識」とやらを、子供や民衆に押し付ける事はとんでもなく下衆で、傲慢な行為だ。そんな事は、せいぜいエンターテイメントとして、「俺は家康派だ」「うんにゃ真田だ」といって酒の摘みに楽しめば良い次元の話しなのだ。

その中におても日本人と言うのは、過去一定レベルにおいて、歴史観や英雄賛美に留まらず歴史から人間や物事を捉える事をしてきた。その代表が「平家物語」であろう。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」

他国の軍記物にありがちな英雄伝でも、勧善懲悪でも無い価値観を伝えてきた。
その典型が「諸行無常」という概念である。

これは一定の価値観として常に日本人の心の中にあった様に思う。
例えば有名戦国武将の辞世の句の多くには、「夢」という言葉が出てくる。

上杉謙信:「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒」
豊臣秀吉:「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」
徳川家康:「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
(ちなみに、小生は句でいうならば秀吉が一番冴えていると思う。)

また、織田信長が好きだったと言われる能の「敦盛」も「平家物語」がベースとなっている。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

自身の英雄賛美でも、滅びの美学でも無く、一種虚無的な感覚として現世の事を「夢」(儚いもの)として捉える感覚である。
別に当人達は厭世的な世捨て人でも何でも無いのだが。

日本人が持っていたこの様な感性は、ロジカルシンキングの基本にも近い感覚で、物事を善悪、表裏、といった人間が作り出した観念論では無く、自分自身や、物語の被対象者から離れ第三者的な視点から、人間や、事、物、の変化(繁栄や衰退や滅亡、人の生死、もののあはれ、儚さ、可笑しさ、虚しさ)を捉えるという、ある種変わった感覚を持っていた。弁証法的と言うのかもしれないが、日本の場合、知識人の学問では無く、ある種の一般的な感覚として持っていた様に思われる。
この感覚というのは、自分達の歴史を美化する事とも、自虐として卑しめる事とも全く違う物である。
(江戸時代になって、体制を維持する為の方法論として儒教が取り入れられ、忠義や忠孝を強く説かれ勧善懲悪的なストーリが持て囃され、更にはそれが戦前まで、「天皇陛下バンザーイ!」的に国民鼓舞の為に悪用されてしまう事になった。)

いったい現在の日本人ときたらどうだろうか?
「歴史」という言葉が出て来た時点で、教科書どころか、エンターテイメントとしての小説、ドラマまでもが窮屈な史観とやらに囚われてしまっている。「反戦平和」とか「愛」とか、薄っぺらなヒューマニズムやイデオロギー、他国への遠慮の為に、本質的な面白さをすら見失い、少し別次元だが学問としての「歴史」からも本質を「学ぶ」事が出来なくなってしまっている。(各種御用学者さん達のお陰で?)

歴史というものは、その対象が自国のもであれ他国のものであれ「過去」を現代において裁く為にあるので無い(それは愚行、蛮行というものだ)。そこから学び、現在、そして将来に対して何をしうるのか?に、全ての価値がある。アフガン、イラク、ウィグル、チベット、テロ、核兵器、独裁、搾取、不況、差別、環境、etc
日本人が本当に歴史を学ぶのであれば、なぜ今この瞬間も行われている蛮行を止める手立てを考えないのか?(中国人や米国人を憎めという意味では断じて無い)

くだらない「史観論」に捉われ、思考停止に陥る位なら、平家物語的なエンターテイメントの方が遥かに人々に役立つもので価値が高いのでは無いのか?とつくづく思う。

2009年12月17日木曜日

「KPI」や「見える化」なんてやめとけ(貴社の場合に限り)

「戦略じゃなくてノルマでしょ」なんて事を書いたが、どうも最近新手のノルマが流行している模様。

その昔BSC(BalancedScoreCard)の流行を契機に、CSF(CriticalSuccessFactor)、KPI(keyPerformanceIndicator)なんて言葉が随分流行した。
BSC自体は、狂牛病の騒ぎの沈静化とともにあまり聞かなくなってしまったが???(笑)
KPIという言葉だけは一般化し、ビジネスマンであれば知らぬ人もいない程、色々なところで使われる様になった。

さて、売上、利益という結果数値だけからの管理を脱するという意味では、BSCブーム後は「見える化」とか「経営ダッシュボード」「プロセス管理」とか色々表現こそ違いはあれ、結果数字だけを見るのでは無く、多角的に経営を左右する因子を的確に捉えオペレーションしていく。という事は一般的になってきたと思う。

その中で、「BSC」や「見える化」といった表現方法こそ差異があれ、KPIだけは言葉として生き残ったというのは何となく納得できるし、こういう考え方自体は酷く真っ当なもであろう。

さて貴方の会社で、以下の項目の内容は正確に把握できているか?

・営業マンの一ヶ月の平均訪問回数
・クレーム発生件数
・一顧客あたりの平均単価
・間接業務の労務時間
・Webや電話からの問い合わせ件数
・従業員の平均労働時間
・品切れ発生率
etc

かなり適当に、それっぽい項目を並べてみたが、こういった項目の内容の結果が、BS/PLに結果数字として載るのであって、結果に至るプロセスをしっかりと管理する事こそが重要だ。

で、これに目を付けたのがIT屋さん(笑)。とにかく「KPI」大好き!(笑)「見える化」ソリューション!(笑)


あるSFAベンダー(今や飛ぶ鳥を落とす勢い)のコンサル責任者の方と話しをした時に「KPIでしっかり管理すれば必ず業績が上がる」と強弁されて、目が点になってしまった。
こういう方って、なんと言うか、頭は良さそうなんだけど「リアリティー」が無いのよね。
自分自身が血反吐いて業績を向上させて来たとか、何かを成したとか、そいう経験、体験というか・・・(別に血反吐を吐く必要は無いんだけど)だから平気でこんな事言っちゃう。

いや、成長市場にいたり、同社の様にバズワードに乗ってガンガン売れている時は良いのよ。KPIでも。
っていうか、KPI管理のお陰で上手く行っていると信じる事ができる。という方が正解かな?

いいかな。上に出した様な指標はあくまでも指標でしかないんだよ。
訪問件数をカウントされた所で、実際には「で、どこに訪問する先なんてあるのよ?」ってなるよね。それでも無理に、訪問件数未達の者は減給だ!ってやったら、顧客の迷惑顧みず、訪問しまくって顰蹙買うのが落ちか、ウソ訪問し始める。確かに営業の場合、「兎に角、人に合う、会えばなにかある。合わない限りは何も生まれない」これは確かにその通りだし基本なんだけど、一生懸命顧客の事を考えて有効な提案を持って行き、有難がられる1回の訪問と、ノルマの為に、半ば無理やり押しかけての10回訪問。どちらが業績にインパクトを与えるのか?って議論もあるよね。こういうのは常識的に状況状況で都度判断すべきものなの。

野球でいうなら、BS/PLはチームの勝敗の数と言って良い。最終的にそれでチームの優勝が決まる。
これに対して、こういう指標はチーム打率や防御率、奪三振、ホームラン数、出塁率、etcなのだ。

これをリアリティーの無いIT屋さんの発言で例えると、「チーム打率3割、防御率2点、チーム本塁打200本・・・KPIを定めて、しっかり管理すれば間違い無く優勝できる!」って言っている様なもので、小生が固まってしまう理由も解って頂けるだろう。
チーム本塁打数が最重要目標だ。本塁打を打てばボーナス弾むぞ!ってなったら、バントなんて誰もしなくなるよね。確かに本塁打は多いに越した事は無いけど、バントや四球選択だって状況によってはとても重要。その逆も然り。

これは殆ど絶望的な勘違いなんだが、結局「KPI」=「目標」としてしまうから駄目なんだ。
KPIはindicator=指標であって決して目標=targetでは無いのだ。にも関わらず、KPIを目標だと思ってしまっている人や企業があまりにも多い。

だからと言って「指標」が必要無いなんて事は無い。チームの施策として、本塁打数の向上を目指す。その為にホームランバッターをトレードで呼んできたり、特別な練習をする。その上で方針がどこまで施策が有効に浸透して実行されているかどうかを計る必要はある。効果が出ていないのであれば、やり方を変える必要がある。それ以外の指標だって出来る限り多くの項目で、詳細な情報を、可能な限り迅速に把握できた方が良い事は言うまでもない。

漫然とマネジメントしていれば、何時までたっても変わらない。注力する分野を絞る事は重要だ。更にただ絞っただけ、例えば重点顧客からの売上を○%UPさせる見たいな営業施策を出しても、実際にそれだけでは実行される可能性は低いのも言うまでも無い。

どうすれば重点顧客からの売上をUPできるのか客観的、合理的に徹底的に考え抜き実行しなくてはならない。その結果上手く進捗できているのか?そうでないのか?あくまで「仮説の検証」為の道具がダッシュボードの様な機能で、それを計る項目がKPIなのだ。
打率や防御率など色々な指標が測れたところで、イコール強いチームができる訳では無いんだヨ。

にも関わらず、「重点顧客からの売上を○%UP」で、ロクに仮説設定もせず「KPI=重点顧客への訪問件数」みたいな事を平気でやってしてしまう。
そして、結果は、
「重点顧客の売上が全然伸びてないし、訪問も出来ていないじゃないか!バカモン!」(経営者)
「そりゃ、出来れば苦労しね~よ」(現場)
で終わり。
現場にしてみれば「だったら見せるか!ボケッ!」となる。普通に。

KPI・・・今日も、ピーピー、言わしたろかっ!

IT屋さんだとしてもコンサルタントを名乗るのであるならば、正しい仮説設定を支援した方よっぽど本質的だとおもうのだけどな~まあ、そんな事してしまうと肝心なシステムがいつ売れるか判らなくなるから無理か・・
KPIで管理されているし(笑)

2009年11月26日木曜日

働く事の意味と価値

働くのは食う為である。いや、社会貢献の為である。
自己実現とかマズローの欲求の話しは聞き飽きただろう。

まあ、小生自信がそうであった様に実際に社会に出たばかりの時は、そんな事はどうでも良く、まあ卒業したら働く事が当り前。
親も親戚も友人も皆そういう価値感を持っているから仕事に就く。より有名な企業、大企業、安定した職、他人から羨まれる仕事・・・もちろん、「世の中の役に立つ研究の仕事がしたい。」「車が好きなので、自動車に関係する仕事に就きたい。」「人と接するのが好きなので販売や営業に仕事がしたい。」「大企業では無く、自分の能力が発揮しやすいベンチャーで働きたい。」etc
勿論、表面的には、自発的な要素によって選択して行く訳だが、はっきり言ってこんな自発的な動機なんていうものは、言ってみればファッションの個性見たいなもので、おとなしめの地味な服装が好きとか、派手でケバイ格好が好きとか、モード系とかコンサバ系とか。ブランド好きとか。価値基準の軸はそれなりに色々あるにせよ、所詮自発的な就職動機なんて、フッションの嗜好と同程度だと思っている。

ファッションなんていうものは、アフリカの原住民として生まれていれば、上半身裸で生活していても何の劣等感もない。洋服を着ているて生活すれば、むしろその方がおかしい訳で、こんな事に「正解」を求めるのは愚かしい行為である。

何故、そんな事が言えるのか。
例えば貴方が大企業の役員の名刺を持ってビジネスをするのと、名も無い企業のヒラ社員の名刺で活動するのとでは、貴方自身は、性格も能力にも何の違いは無くても、相手の反応は全く違うモノになる。
同じ様に、ファッションコーディネーターがコーディネイトした高級ブランド品で身を固め、カリスマ美容室で髪を整え、エステに通って作られた外見で人と接するのと、髪はボサボサで、上下汚れたジャージを着て、人と接するのでは、中身は同じ人間でも相手の反応は「必ず」大きく異なる。

即ち「働く価値」(意味では無く)は、相対的な物であると言える。相対的な価値に対して絶対的な意味付をする事に何の理由があろうか?
「服を着る意味」「ファッションの本来の意味」・・・・

「シューカツ」「コンカツ」とは良く言ったものである。
大抵社会人を続けていると、この「働く意味」を考える時期がくる。
「人付き合いの煩わしさ」、「他人を蹴落とす競争」、「無理解で無慈悲な上司」、「顧客を無視して押し付けられるノルマ」・・・
なんで、こんな想いをしてまで「働いているのか・・・」と感じる時期が来る。大企業、一流企業で働いていてもだ。
同様に、芸能人カップルの様に、お互い美男、美女で、お金にも困っていない人達の結婚は、むしろ失敗する確立の方が高い。「性格の不一致」「価値感の違い」「多忙によるすれ違い」「相手の浮気」・・・
なぜ、こんな想いをしてまで「結婚しているのか・・・」(笑)

就職するまでは採用する側の企業は、如何に自社が働き甲斐があって、成長性があって、公平で中立で、希望に満ち溢れているかをアピールする。求職者側は、如何に自分が役に立つ人間であるかを、色々と勉強してアピールする。綺麗ごとで着飾った「化かし合い」を繰り広げる。
それは言い過ぎだって?
では、一昨年までの様な「売り手市場」と昨今の「買い手市場」で、両者の態度が一変するのはどういう訳だ?しょせんお互いブランド品で固めて、婚活パーティの参加する程度の事。
若くて、美男、美女で、お金を持っていれば、黙っていても人は集まって来るし、逆なら来ない。建前ではお互いの本音を知りたいとか、性格が重要とか、そんな事を言って見ても、所詮、それだけの事だ。小生も採用担当の面接官を務めた事があるが、できる限り本音で話そうと挑んでも、やっぱり本当の会社の実態なんてさらけ出す訳にはいかない。残念ながら・・・

面接官:「うちの会社って対外的には、結構良い会社なんて言われているけど、中は惨憺たるものだよ。優秀な人間はどんどん辞めていっちゃうし、トップは自己顕示欲が強くてわがまま放題。部門は縦割でいつもイガミあっている。
役員連中なんかも、如何に上手く切り抜けるか保身ばっかり考えていて大きな手を打たない。そんなんだから若手も皆やる気を無くしていてね~そうれでもウチの会社入りたいの?」

求職者:「はい、実は私も出来れば仕事なんてしたくないんです。働くとしても、もっと時間を掛けて自分探しをしてから働きたいんですが、現実問題なかなかそうもいきません。親の期待もありますし、親戚や周囲の目もありますから、それに新卒で正社員になっておかないと、いざ働きたくなっても、そうそう良い仕事にはつけないでしょうから、御社なら知名度もありますし、それなりに安定していると思い希望しました。
もちろん、その中でもできれば遣り甲斐がある仕事をしていきたいとは思いますが、そもそも働いた事が無いので、遣り甲斐のある仕事がなんであるかなんて解りませんから。確かに、会社入れば嫌な事も一杯あるんだろうな~とは思いますよ。上司に媚売るなんて柄じゃないですし。
でも、それはどこの会社だって似た様なものじゃないですか。だったら御社の様に、知名度、規模も、安定性も充分な会社に入った方が何かと良いと思うんです」

むしろこういうやり取りをした方が、よっぽど建設的な気がするんだけど・・・・

さて「働く事の意味」、とか「結婚する事の意味」とか言った場合の言葉の重さに比べて、実際に繰り広げられる「シューカツ」「コンカツ」の「軽さ」ときたらどうであろう。
「シューカツ」なら採用する側も、求職側も当人達は大まじめの死活問題と捉えているであろう事は確かなのだが・・・
そして「働く事の価値」が相対的なもとして評価される現実に対して、「働く事の意味」は絶対的なものとして昨今「ありがとうをいっぱい貰う為に働く」とか「仕事を通じて社会貢献をする」とか、定義されてしまう事に小生はなんとも言えない気持ちの悪さを感じてしまう。
結婚式で誓うあの恥ずかしいセリフに似ている。結婚式で、誓いの言葉を宣言しているカップルに向かって「そんなワキャね~だろ」とヤジを飛ばすには相当な勇気が居るが、現実は・・・と言ったところだ。

ところで、この話、当初は就職の選択なんてファションの選択と大差ないと書いていたのに、途中から「結婚」に話しをすり替えた。別に深い意味は無く、学生の頃の恋愛に大層な意味など無く、ある種本能の赴くままに・・・に近い状態でありながら、失恋とか、不倫とか、色々あって後、いつのまにか「結婚とは・・」見たいな、多少なりとも文学的な意味合いを探すのと同じ様なもので、学校を出たばかりの就職活動なんて大した意味も意義も無く、その後社会人として経験を積んでくると「仕事とは」とか「働く意味とは」とか考え出す。という意味で話しをすり替えただけである。

名物経営者が、紆余曲折あったうえで悟りの境地の様に発する「働く事の意味」と、キリストやらブッタなりの宗教家がたどり着いた境地を原点とする「誓いの言葉」。それと、ごく普通の一般人が感じられる範囲とのギャップこそが小生が感じる気持ち悪さなのかも知れない。いや偉い人の言葉に感銘を受ける事は出来ても、現実とのギャップ感。いくら人から感謝される仕事がしたいと考えても、現実としては、給料や労働時間や世間体の方を優先してしまう。
ちなみに環境が悪いから「感謝」されないなどと考えるのは大馬鹿者である。

で、小生何が言いたいかって?
無理に「働く事の意味」なんて考えるな!と言いたい。どんなに現実に悩まされていても「偉い人」の言葉に感銘を受けてそれに流されたりしなさんな!!
恋愛や結婚に高尚な意味や意義なんて持ちこむとかえって失敗する。

働いている(働く事)の現実と「自分を客観的に見つめて磨いていく」姿勢の方が遥かに意味がある。
それは単にスキルアップなどという次元では無く、人間としての成長の事であり、仕事でも恋愛でも結婚でも同じ事だ。

偉い人の言葉が「10」とするならば「10」を求めて努力すると必ず迷う。憂う。「10」を知って、「10出来る」と勘違いするのは破滅への始りだ。しかし自分が「1」である事を知り、「1.1」を目指す事には悩みはあっても迷いは無い。それは周りからの相対評価としての成長では無く、自分自身の絶対評価で計る。

そう考えれば「働く事」も手段でしかない。
「1.1、1.2、1.3・・・・2、2.1、2.2・・・3・・4」そうしていつのまにか「10」になった時に、偉い人の言葉を真に理解する事が出来るかもしれないし、自身が別の境地を切り開いているかもしれない。コンビニのバイトでも、大企業の役員でもこの考え方をしている限りは成長できる。

自分自身の絶対評価をするには、自分の中に「価値基準」が無ければ無理じゃないの?と考えた貴方は賢い。
でも、「価値基準」なんて難しい事考えずに、「如何に自分が生きる」のが結果ハッピーかという事を考えれば良い。ただし、

「ヒルズに住んで高級車に乗って、周りから褒め称えられる。」
「ビンボーでも南の島でのんびりと自然に囲まれて暮らす。」

では無く、もっと人間として深く内面に対して「如何に生きるか」を考える。
それは同時に「如何に死ぬか」と同様の意味を持つ。
自身に対しての死生観レベルの問い掛けだと言って良い。
なんだか難しくなってきたが、一言で言うと「自分はどうありたいか」であり、人間という生き物が、その思考においてしか「Happy」を認知できない以上、それら周辺の事は「ファッション観」から「結婚観」「仕事観」に至るまで、他人の評価に振り回されている限りは何も得られず、結局は自分自身の中に確固たる基準を持つしかないという事だ。

しかし「無理にサラリーマンしなくても、南の島で・・・」サラリーマンは自分らしくなくて、南の島が自分らしいと考える人は失敗する。
サラリーマンの自分が「1」ならば、南の島なら自分「10」になると勘違いするのでは無く(他力本願)、
サラリーマンの自分が「1」ならば、南の島に行く事によって「1.1、1.2・・・2・・・3・・」と自己成長を求めるのであるばあれば良い。
但し、環境が自分を変えてくれると考えるの間違いであり、甘ったれだ。

なんだか脈略が無くなっが、甘ったれた方々を見ていると「働く意味」なんて考える暇があったら、もっと己と向き合え!
と、たまには偉そうに言ってみたい。

2009年11月13日金曜日

日本の起業家って本当にベンチャー?

今週の日経ビジネス紙(11.9号)のタイトルは、「今こそ起業資本主義~立て、日本の草食系ベンチャー」というもの。
草食系ベンチャーとはなかなか上手い表現をするな~と関心したのだが、肝心な記事で紹介されている草食系は2社に留まり、後はインドや、アメリカのベンチャーの紹介と、ベンチャーの支援体制の違い。と、内容に関しては正直もう何百回と目にして、耳に聞いた内容で、この手の話しの結論は、いつもの日本はベンチャーを育てるマインドや制度が不足しているで終わり。
せめて、設立目的や、お金に関する拘り度、資金集めの方法、車やファッションに対する意識など、仮説立てした上で、調査を行い。時系列で企業家達の意識が如何に変化してきているのか?草食系増加のファクトと、それに基づくもう少し深い洞察が欲しい。その上で、今後のベンチャー育成はこうあるべきではないか?という提言が欲しい。


さて、何故日本からは「Google」や「Amazon」が生まれないのか?「ホンダ」や「Sony」だって昔はベンチャーだったではないか?
こう言った話しは、この記事に関わらず、数年前から至る所で議論されている。
政治家、官僚、財界人、成功した起業家、学者、評論家、マスコミといったいつもの顔ぶれが揃って・・・
でも小生も、走り出したばかりの起業家のはしくれとして言わせてもらえば、正直ピンと来ない。
確かに、ベンチャーを取巻く環境として、色々とハード面で見直す事。VCの充実や、国の支援(エンジェル税制など)、融資制度の見直しなど、取組むべき課題は多いと思う。しかしそれらの提言が、実行されたからと言って、日本から「Google」や「Amazon」規模に育つベンチャーが生まれてくるとは、とても思えない。

確かに、この問題を考えた時に、働く事に対しての意識の違い。しいては教育環境、社会環境の違いは非常に多くのウエイトを占めていると思う。
但し、こういった要因は、それこそ「Google」「Amazon」規模の成功事例が出てこないとなかなか変化しないのではないかとも思える。
社会環境が悪いから、育たないのか。育たないから、環境が変わらないのか。という鶏が先か卵が先かの問題の様にも思うが、ライブドア事件が、ベンチャーは「胡散臭い」「虚業」「拝金主義」とイメージを社会に植え付け、一層社会環境がベンチャーに対して閉じた環境になってしまった事を考えると、逆説的だが、やはり一つのムーブメントとして形になるものが生まれ、社会に認知されない限り難しいのではないかと考えてしまう。

この点を考えると、日本におけるベンチャーの位置付け、定義そのものに疑問符がつく。
日本で一般的に「ベンチャー」と認知されているキーワードは「新技術」「アイディア」「他国模倣」などが浮かぶ。

1.「新技術」はバイオやデバイス、ロボットや、IT技術などの先進性のある技術シーズの事業
2.「アイディア」は、技術的な先進性は認められないが、独創性を持ち、今まで誰も気づかなかった分野の事業
3.「他国模倣」は、あまりピンとこないかも知れないが、米国で流行したITサービスなどをいち早く日本で展開する事業

この三点でいうならば、実は日本で一番成功しているのは「他国模倣」だろう。「ブログ」や「ネット広告」「ソーシャルネットワーク」「EC(ElectricCommerce)」など、いわゆるIT系のサービスで、米国で流行したものを、日本でいち早く取り入れた事業。(先進性も独創性も認められない)
日本のベンチャーの成功例として取り上げられる企業。「楽天」や「SyberAgent」「Mixi」などをイメージすると早い。
1.「新技術」や2.「アイディア」の事業は、どうしてもニッチマーケットがターゲットとなっている為、スケール面での限界点が直ぐに来てしまうことが多い。
しかし、それなりに日本で成功している「他国模倣」においても、「模倣」であるが故、国内市場に留まってしまう。この意味では、そもそもの問題提起である、日本から何故「Google」や「Amazon」が・・・に関して、スケール面においてこちらも、既に回答ができ上がってしまっている。

即ち、日本のベンチャーを考える上で、決定的に欠けてている要因は、事業ドメインがそもそもスケールが求められる領域に居ない。という事なのだ。
「ホンダ」や「Sony」を考えた時に、確かに「新技術」や「アイディア」「他国模倣」全ての要素を持って立ちあがったが、戦う土壌がオーディオ、家電、バイク、自動車といった既に大きな市場が求められるメインストーリムにおいて勝負を挑んでいった。という事実が、今の日本でベンチャーを検討する際の観点から抜け落ちてしまっている。もちろん当時の日本の社会環境。即ち、低賃金、円安、労働意欲、勤勉性、潜在的技術力などの要因がそれを可能にしてきたという点では、現在は当時とは比較にならない程、変化してしまった。

さて、一方の「Google」や「Amazon」において、その収益を生む事業のドメインを考えると、その市場におけるコンペチターはよく言われる様な「Microsoft」や「IBM」、日本ならば「富士通」や「NEC」の領域では決してない。
(ちなみにSalesForceのコンペチターは「IBM」「富士通」「NEC」である。(面白い事にIBMは一部で業務提携する事はあってもSalesForceを売る事は無いが、富士通やNECといった会社は、いち早く「売る」事を表明してしまった。日本企業の戦略不在ぷりは、本当に・・・))

「Google」ならば、その収益の多くは、広告収益であり、コンペチターはメディア(TV、ラジオ、新聞、雑誌)もしくは広告代理店である事は少し考えれば解る。「Amazon」であれば、その本の販売が収益の中心を占め、コンペチターは、書店、流通(卸)、である。
この二社が、実際コンペチター達に与えた打撃は計り知れないものである。日本でも、マスコミや広告代理店、書店が窮地に立たされている事実と無縁では決してない。もともと大きな市場性の認められるメインストリームにおいて勝負しているのである。
「ホンダ」や「Sony」が当時の日本の社会環境を武器に既存のオーディオメーカーや、家電、自動車、バイクメーカーに挑み勝利した様に、近年の米国のベンチャーはITを武器にメインストーリームに打って出て勝利をおさめているのだ。

しかるに日本の場合、いつのまにか起業家側も、育成側(VCや国など)も、ベンチャー=ニッチマーケットであり、「新技術」や「アイディア」「他国模倣」に出資、投資するものという固定観念が出来てしまった。起業家も決してメインストリームに打って出る様な事を考えないし、周りもそんな与太話しは支援しようとは思わないだろう。


実は、本来、日本においてなら「トヨタ」や「Panasonic」の事業領域に打って出て、打ちのめす位の意気込みこそが本来求められるベンチャースピリットであり、その為の武器が今の社会環境において何になるか?という事こそが真面目に検討されるべきではないのか。
「Google」や「Amazon」だって、展開するスピードの速さは、「ホンダ」「Sony」の時代とは比べ物にならないが、一番最初に被害を受けたのは、米国のメディアや書店であったはずだ。

自動車や家電は日本の基幹産業でありながら、おかしな事に、これらの企業が今怯えているのは新興国のベンチャーに対してでる。

本来であれば、日本のベンチャーこそがそれを考えるべきで、大きな市場での新陳代謝こそが、その国の産業活力となる。
国が考えるベンチャー育成も、この点をもっと真剣に考えるべきである。
「トヨタ」や「Panasonic」を打ちのめす支援を・・・・だ。

そう考えなければ、日本から「Google」も「Amazon」も決して生まれる事は無いであろう。
既存の大企業の衰退とともに日本経済は没落していく事になる。

2009年10月26日月曜日

で、結局戦略って何?

で、結局戦略って何?


経営戦略、事業戦略、営業戦略、IT戦略・・・兎に角、ビジネスマンは「戦略」という言葉が好き。ミーティングでも必ず一回は「○○戦略」とか「戦略的には・・」という言葉が出てくる。

しかし、本当に「戦略」の意味が解って言っているのかかなり疑問を感じる。

以前、マネジメントの定義も人の数だけある。と書いた様に、「戦略」の定義も人の数だけある。と言ってよい。

日本語は、どんな単語も自国語に取り入れられるので便利は便利なんだが、言葉の曖昧さに関しては事業を行っていくにあたって相当不利があると言ってよい。
ビジョン、理念、ミッションステートメント、戦略、戦術、マネジメント、行動規範、ガバナンス、CSR、マーケティング、・・・さて諸兄はこれらの言葉の定義をちゃんと説明できる自信はあるだろうか?
小生も、適切に表現するとなると少し厳しい。いや、小生がこうであると言っても、「それは違う」と言われてしまえば、辞書を引きながら企業にあてはめると、この意味が正しいなど不毛な論戦で決着をつけるしかない。
結局、この様に曖昧な言葉が企業の中に蔓延しているという事は、軍隊でいうなら、

総大将が「あの山の麓を目指して、進軍せよ」と言い。
各現場の指揮官が「左四十五度に進軍!」。
中隊長が「南南西に進め」。
小隊長が指をさしながら、「あの方向に進め!」。

こんな状態といって良い。にも拘らず、いわゆる「カタカナ語」「社内用語」も含めるともう「言葉の定義」なんてあったものでは無いというのが、日本企業の現状だろう。
これではまともな指揮命令なんてできる訳も無いのだが・・・いや、むしろその曖昧さこそ、日本的サラリーマンの美徳かもしれない・・・
権限も責任も曖昧にしたまま調和しながら進んでいく。そう言えば「役人言葉」は一つの芸術に近い。


さて、「戦略」の英語はStrategyとなる訳だが、そう表現すると何か血生臭い戦争を思い起こしはしないだろうか?それは正しい。

「戦略」は相手がいて初めて成り立つ言葉なのである。
しかし、多くの人が口にしたり、表現する「戦略」の多くは、相手が不在な事が実に多い。
驚いた事に、一応それなりに有名なコンサルファームが策定した「戦略」にも相手が居なかったりする。
相手不在の戦略と一体は何か?これは「願望」といって間違えない。「戦略」が「単なる願望」になってしまっているケースだ。「○○エリアのシェアを○%UPするとか」、「商品ラインナップを充実させ客単価の向上を目指す」。とか、酷いのになると、ひたすら販売目標数字だけを羅列して、これがわが社の戦略だ!と、わけの解らない事をおっしゃる方すらいる。(一度、脳を精密検査してもらった方が良い)

個人で独立しているコンサルやってる方なんかだと平気で、「何を、誰に、どうやって」売るのか?が戦略だなんて恥ずかしげもなく言ってしまう。

このロジックだと、「100円で仕入れたスプーンを、主婦に、ネットで販売する」が「戦略」って事になってしまう(笑)。もう評論するレベルですら無い。

お客様を「敵」と表現するのは不遜な気がするが、企業戦略において相手=敵とは市場であり顧客である。
「味方精鋭艦隊を持って、敵主力艦隊を撃滅す」と言って、それが「戦略」だと言われたら現場はタマッタものでは無い。
販売の数値目標みたいなのを「戦略」と言ってしまっている人は「戦艦2隻、空母3隻、巡洋艦5隻、駆逐艦10隻沈めるのが我が軍の戦略」と言っている様なもので。笑い話しにもならない。
戦争における「相手」が、出来るだけ少ない損害で最大の打撃を与えようと向かってくるのに、こんな「願望」を幾ら唱えた所で勝てるわけない。

企業においての「相手」も(toCだろうが、toBだろうが)、出来る限り支払いは少なく可能な限り良い商品を手に入れようと向かってくるのだ。100円で仕入れたスプーンなら、貴方が幾ら赤字になろうが、50円、10円で手に入れようとするのが相手なのだ。いや単純に「5円でも要りません」と言われておしまいの可能性もある。
孫子が「敵を知り、己をしれば百戦危うからず」といった様に、戦略は「まず相手がどう動くか」が基本なのだ。
「何を、誰に、どうやって」売るのか?では無く、
「誰が、何を、どうやって」買うのか?こそそが戦略の一番基礎に来なければおかしいのだ。それがあってどう動くかが戦略なのだ。

しかも、ややこしい事に「企業」の場合「相手」は市場や顧客だけでなく「競合」という、大きな軸も加わる。
即ち、顧客-競合-自社という3Cのフレームこそが、戦略の立案のベースとなる。
上につく言葉は兎も角、どんな次元の戦略であってもビジネスマンが戦略を口にするなら、全てこのフレームに当てはめて語られていなければおかしい。「経営戦略」「事業戦略」(マーケティング戦略というのは本来このレベルだが、「広告戦略」の意味で使われるケースが多い。)「営業,販売戦略」どんな次元でもだ。
ちなみに「IT戦略」というのは何を意味しているのか、さっぱり良く解りません(笑)、システム屋さんに意味を聞いて見て下さい。

「戦略が現場に落ちないって嘆いている経営者の方、「願望」を「戦略」といって現場に押し付けるのは止めませんか?」
「それ、単なる「ノルマ」ですから♪~~~~~残念~~~~~切腹!」

「そういうお前は?って聞いちゃ嫌。切り!!」