2009年12月23日水曜日

歴史を直視できない日本人

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」先週で第4回「日清開戦」が終わった。

「坂の上の雲」は元々、原作者の司馬遼太郎はこの小説のドラマ化を嫌っていたと言われる。日清、日露といった周辺国との戦争が題材にされており、同時に当時(1972年初版)、まだ一般的には名将と思われていた乃木希典を徹底的に無能な軍人として描いたりと、ドラマにしてしまうともう小説の枠を超えて、色々な物議を呼んでしまう事を恐れたのであろう。
そうで無くても司馬遼太郎の小説は、あまりにも広く読まれた為「司馬史観」と評され、一部からは微に入り細に入り、ここが史実と異なると指摘を受けるハメとなった。様は左翼と右翼が、それぞれの立場で歴史を検証すると事実はこうであり、司馬の記述は間違いであるから価値が無い。と騒いだ訳だが、そもそも「歴史小説」なんで、目くじらを立てる様な問題でも無いのだが・・・

ただ、司馬遼太郎自身が、小説を各時に膨大な資料を読み、現地に足を運び、それらの情報を元に大局的な時代背景を描き、その時代背景の中で主人公の行動がどうであったか。どの様な思考原理で行動したか表現するという手法を取った為、読み手に対して、小説としてのエンターテイメントでは無く、その当時の歴史そのものが如何にも記述されている通りだったかの様な錯覚を産んでしまうのも確かだ。

さて、話しを戻してドラマ「坂の上の雲」だが、やっぱりNHKだけあって、予想どおりというか、わざわざ原作には全くない表現を加えてまで、色々と気を使っている様で・・・

大河ドラマなんかも全部そうなんだけど、こういう行為は単純にエンターテイメントとしての「面白さ」を削いでいるだけだ。ドキュメンタリー番組でものに、何にそんなに気を使うのか?(まあこの国の事情というやつがそうさせるのだろう。)


司馬遼太郎の作品で言えば、石田三成を主人公とした「関ヶ原」や、大坂の陣を描いた「城塞」では、徳川家康は悪逆非道の限りを尽す(笑)。それも解りやすい虐殺などでは無く、陰謀、策謀の限りを尽くして狡猾に大坂方を追い詰め陥れて行く。この辺はやっぱり作者が大阪生まれという事で贔屓を感じてしまうのだが、それでも、作者は歴史的意義として大坂方はその役目を終えるのは当然であり、徳川政権の必然性を認めている。諸大名が「利」を求めて家康に付くのも当り前だし、大坂方をドン・キホーテだという表現もしている。
このあたりが司馬の作品が合理主義的と言われる所以であり、小生も同氏の作品が好きな理由でもある。
その中でエンターテイメントとして、自分達なりの義の追求であったり、武士として死を如何に飾らん。という登場人物達を輝かせるには、徳川家康の陰謀をより強烈に表現する必要もあるだろう。

司馬遼太郎の小説の本質は、当たり前なんだが正しい歴史認識などでは無く、その時代背景から、歴史上の英雄達の行動を作者が独自に解釈し「男子の一生」として爽快に描いている点ではないだろうか。
体制を壊す側の「竜馬がいく」と反対側の「燃えよ剣」を同時期に書いていおり、「新選組が殺人集団だったから評価できない」とか、「河井継之助が結果として何も成さず、長岡の街を戦禍に陥れたから「峠」は駄目」とかそういう歴史的評価や、歴史観でついつい評価してしまいがちになるのだが、そういう事とは全く別次元の話しとして、読み終わった後に「男の生き方」として、大いに共感してしまう所こそ同氏の作品のエンターテイメントとしての本質があると思っている。(共感すると言うのは、小生の勝手な感想で、全く共感できなかったという軸で作品を評価するのであれば正しい)

歴史自体は偶然が重なった必然であって「もし武田信玄が後10年生きていたら」とか「織田信長が・・・」とか「ミッドウェー海戦で勝利していたら」なんて事は考えても仕方の無い事であり、逆に歴史的な英雄でも、生まれる場所や時代や立場が違えば、奸雄であり、単なる犯罪者であったかもしれない。名もない一市民だったかもしれない。
歴史的評価や歴史観というものは、それほど無意味なものである。あえて言わせてもらうなら、それらは歴史小説を読む際のスパイス位にしかならない。タバスコなり、胡椒なり、好きにすれば良い。
もし司馬の小説に書かれている徳川家康の行為がすべて事実だったとして、徳川家康は犯罪者である。と現代人が家康を裁く事はあまりに馬鹿げた行為だし、裁かない対象が家康であるなら異議を唱える人も居ないだろう。(旧日本軍や戦争指導者であれば、裁かない事に意義を唱える人が一杯いるという意味で)

例え話しとしてだが、「城塞」を徳川家康=周辺某国、豊臣大坂方=日本として、現在の外交に当て、現代小説として、読んでみても良いかも知れない。「微笑と恫喝」似ていなくも無いだろう(笑)。

日本の戦国時代は、あくまで同一民族どうしの闘争だから、論評するにも随分と気楽さはあるが、当時の日本人の世界観から見れば、世界=日本であり、世界=宇宙みたいなものであって、加賀の国、山城の国といった様に、戦国時代は各戦国大名という帝国主義者間の国家間侵略戦争であり、世界大戦だったと言ったって良いだろう。もちろん虐殺や、略奪も多く行われた。その観点でみれば、誰が悪で誰が善で、誰が誰に謝るべきなんて事は全く意味が無いし、ましてやお前は侵略した国の出身だから土下座しろとか、金払えと言われても困るだろう。オット、危険な方向に話しが行ってシマッタ。

しかし歴史認識を「自虐」「賛美」どちらの側にせよ、どちらの見方が正しいなんて論争は絶対の無意味であり、ましてや「正しい歴史認識」とやらを、子供や民衆に押し付ける事はとんでもなく下衆で、傲慢な行為だ。そんな事は、せいぜいエンターテイメントとして、「俺は家康派だ」「うんにゃ真田だ」といって酒の摘みに楽しめば良い次元の話しなのだ。

その中におても日本人と言うのは、過去一定レベルにおいて、歴史観や英雄賛美に留まらず歴史から人間や物事を捉える事をしてきた。その代表が「平家物語」であろう。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」

他国の軍記物にありがちな英雄伝でも、勧善懲悪でも無い価値観を伝えてきた。
その典型が「諸行無常」という概念である。

これは一定の価値観として常に日本人の心の中にあった様に思う。
例えば有名戦国武将の辞世の句の多くには、「夢」という言葉が出てくる。

上杉謙信:「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒」
豊臣秀吉:「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」
徳川家康:「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
(ちなみに、小生は句でいうならば秀吉が一番冴えていると思う。)

また、織田信長が好きだったと言われる能の「敦盛」も「平家物語」がベースとなっている。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

自身の英雄賛美でも、滅びの美学でも無く、一種虚無的な感覚として現世の事を「夢」(儚いもの)として捉える感覚である。
別に当人達は厭世的な世捨て人でも何でも無いのだが。

日本人が持っていたこの様な感性は、ロジカルシンキングの基本にも近い感覚で、物事を善悪、表裏、といった人間が作り出した観念論では無く、自分自身や、物語の被対象者から離れ第三者的な視点から、人間や、事、物、の変化(繁栄や衰退や滅亡、人の生死、もののあはれ、儚さ、可笑しさ、虚しさ)を捉えるという、ある種変わった感覚を持っていた。弁証法的と言うのかもしれないが、日本の場合、知識人の学問では無く、ある種の一般的な感覚として持っていた様に思われる。
この感覚というのは、自分達の歴史を美化する事とも、自虐として卑しめる事とも全く違う物である。
(江戸時代になって、体制を維持する為の方法論として儒教が取り入れられ、忠義や忠孝を強く説かれ勧善懲悪的なストーリが持て囃され、更にはそれが戦前まで、「天皇陛下バンザーイ!」的に国民鼓舞の為に悪用されてしまう事になった。)

いったい現在の日本人ときたらどうだろうか?
「歴史」という言葉が出て来た時点で、教科書どころか、エンターテイメントとしての小説、ドラマまでもが窮屈な史観とやらに囚われてしまっている。「反戦平和」とか「愛」とか、薄っぺらなヒューマニズムやイデオロギー、他国への遠慮の為に、本質的な面白さをすら見失い、少し別次元だが学問としての「歴史」からも本質を「学ぶ」事が出来なくなってしまっている。(各種御用学者さん達のお陰で?)

歴史というものは、その対象が自国のもであれ他国のものであれ「過去」を現代において裁く為にあるので無い(それは愚行、蛮行というものだ)。そこから学び、現在、そして将来に対して何をしうるのか?に、全ての価値がある。アフガン、イラク、ウィグル、チベット、テロ、核兵器、独裁、搾取、不況、差別、環境、etc
日本人が本当に歴史を学ぶのであれば、なぜ今この瞬間も行われている蛮行を止める手立てを考えないのか?(中国人や米国人を憎めという意味では断じて無い)

くだらない「史観論」に捉われ、思考停止に陥る位なら、平家物語的なエンターテイメントの方が遥かに人々に役立つもので価値が高いのでは無いのか?とつくづく思う。

2009年12月17日木曜日

「KPI」や「見える化」なんてやめとけ(貴社の場合に限り)

「戦略じゃなくてノルマでしょ」なんて事を書いたが、どうも最近新手のノルマが流行している模様。

その昔BSC(BalancedScoreCard)の流行を契機に、CSF(CriticalSuccessFactor)、KPI(keyPerformanceIndicator)なんて言葉が随分流行した。
BSC自体は、狂牛病の騒ぎの沈静化とともにあまり聞かなくなってしまったが???(笑)
KPIという言葉だけは一般化し、ビジネスマンであれば知らぬ人もいない程、色々なところで使われる様になった。

さて、売上、利益という結果数値だけからの管理を脱するという意味では、BSCブーム後は「見える化」とか「経営ダッシュボード」「プロセス管理」とか色々表現こそ違いはあれ、結果数字だけを見るのでは無く、多角的に経営を左右する因子を的確に捉えオペレーションしていく。という事は一般的になってきたと思う。

その中で、「BSC」や「見える化」といった表現方法こそ差異があれ、KPIだけは言葉として生き残ったというのは何となく納得できるし、こういう考え方自体は酷く真っ当なもであろう。

さて貴方の会社で、以下の項目の内容は正確に把握できているか?

・営業マンの一ヶ月の平均訪問回数
・クレーム発生件数
・一顧客あたりの平均単価
・間接業務の労務時間
・Webや電話からの問い合わせ件数
・従業員の平均労働時間
・品切れ発生率
etc

かなり適当に、それっぽい項目を並べてみたが、こういった項目の内容の結果が、BS/PLに結果数字として載るのであって、結果に至るプロセスをしっかりと管理する事こそが重要だ。

で、これに目を付けたのがIT屋さん(笑)。とにかく「KPI」大好き!(笑)「見える化」ソリューション!(笑)


あるSFAベンダー(今や飛ぶ鳥を落とす勢い)のコンサル責任者の方と話しをした時に「KPIでしっかり管理すれば必ず業績が上がる」と強弁されて、目が点になってしまった。
こういう方って、なんと言うか、頭は良さそうなんだけど「リアリティー」が無いのよね。
自分自身が血反吐いて業績を向上させて来たとか、何かを成したとか、そいう経験、体験というか・・・(別に血反吐を吐く必要は無いんだけど)だから平気でこんな事言っちゃう。

いや、成長市場にいたり、同社の様にバズワードに乗ってガンガン売れている時は良いのよ。KPIでも。
っていうか、KPI管理のお陰で上手く行っていると信じる事ができる。という方が正解かな?

いいかな。上に出した様な指標はあくまでも指標でしかないんだよ。
訪問件数をカウントされた所で、実際には「で、どこに訪問する先なんてあるのよ?」ってなるよね。それでも無理に、訪問件数未達の者は減給だ!ってやったら、顧客の迷惑顧みず、訪問しまくって顰蹙買うのが落ちか、ウソ訪問し始める。確かに営業の場合、「兎に角、人に合う、会えばなにかある。合わない限りは何も生まれない」これは確かにその通りだし基本なんだけど、一生懸命顧客の事を考えて有効な提案を持って行き、有難がられる1回の訪問と、ノルマの為に、半ば無理やり押しかけての10回訪問。どちらが業績にインパクトを与えるのか?って議論もあるよね。こういうのは常識的に状況状況で都度判断すべきものなの。

野球でいうなら、BS/PLはチームの勝敗の数と言って良い。最終的にそれでチームの優勝が決まる。
これに対して、こういう指標はチーム打率や防御率、奪三振、ホームラン数、出塁率、etcなのだ。

これをリアリティーの無いIT屋さんの発言で例えると、「チーム打率3割、防御率2点、チーム本塁打200本・・・KPIを定めて、しっかり管理すれば間違い無く優勝できる!」って言っている様なもので、小生が固まってしまう理由も解って頂けるだろう。
チーム本塁打数が最重要目標だ。本塁打を打てばボーナス弾むぞ!ってなったら、バントなんて誰もしなくなるよね。確かに本塁打は多いに越した事は無いけど、バントや四球選択だって状況によってはとても重要。その逆も然り。

これは殆ど絶望的な勘違いなんだが、結局「KPI」=「目標」としてしまうから駄目なんだ。
KPIはindicator=指標であって決して目標=targetでは無いのだ。にも関わらず、KPIを目標だと思ってしまっている人や企業があまりにも多い。

だからと言って「指標」が必要無いなんて事は無い。チームの施策として、本塁打数の向上を目指す。その為にホームランバッターをトレードで呼んできたり、特別な練習をする。その上で方針がどこまで施策が有効に浸透して実行されているかどうかを計る必要はある。効果が出ていないのであれば、やり方を変える必要がある。それ以外の指標だって出来る限り多くの項目で、詳細な情報を、可能な限り迅速に把握できた方が良い事は言うまでもない。

漫然とマネジメントしていれば、何時までたっても変わらない。注力する分野を絞る事は重要だ。更にただ絞っただけ、例えば重点顧客からの売上を○%UPさせる見たいな営業施策を出しても、実際にそれだけでは実行される可能性は低いのも言うまでも無い。

どうすれば重点顧客からの売上をUPできるのか客観的、合理的に徹底的に考え抜き実行しなくてはならない。その結果上手く進捗できているのか?そうでないのか?あくまで「仮説の検証」為の道具がダッシュボードの様な機能で、それを計る項目がKPIなのだ。
打率や防御率など色々な指標が測れたところで、イコール強いチームができる訳では無いんだヨ。

にも関わらず、「重点顧客からの売上を○%UP」で、ロクに仮説設定もせず「KPI=重点顧客への訪問件数」みたいな事を平気でやってしてしまう。
そして、結果は、
「重点顧客の売上が全然伸びてないし、訪問も出来ていないじゃないか!バカモン!」(経営者)
「そりゃ、出来れば苦労しね~よ」(現場)
で終わり。
現場にしてみれば「だったら見せるか!ボケッ!」となる。普通に。

KPI・・・今日も、ピーピー、言わしたろかっ!

IT屋さんだとしてもコンサルタントを名乗るのであるならば、正しい仮説設定を支援した方よっぽど本質的だとおもうのだけどな~まあ、そんな事してしまうと肝心なシステムがいつ売れるか判らなくなるから無理か・・
KPIで管理されているし(笑)

2009年11月26日木曜日

働く事の意味と価値

働くのは食う為である。いや、社会貢献の為である。
自己実現とかマズローの欲求の話しは聞き飽きただろう。

まあ、小生自信がそうであった様に実際に社会に出たばかりの時は、そんな事はどうでも良く、まあ卒業したら働く事が当り前。
親も親戚も友人も皆そういう価値感を持っているから仕事に就く。より有名な企業、大企業、安定した職、他人から羨まれる仕事・・・もちろん、「世の中の役に立つ研究の仕事がしたい。」「車が好きなので、自動車に関係する仕事に就きたい。」「人と接するのが好きなので販売や営業に仕事がしたい。」「大企業では無く、自分の能力が発揮しやすいベンチャーで働きたい。」etc
勿論、表面的には、自発的な要素によって選択して行く訳だが、はっきり言ってこんな自発的な動機なんていうものは、言ってみればファッションの個性見たいなもので、おとなしめの地味な服装が好きとか、派手でケバイ格好が好きとか、モード系とかコンサバ系とか。ブランド好きとか。価値基準の軸はそれなりに色々あるにせよ、所詮自発的な就職動機なんて、フッションの嗜好と同程度だと思っている。

ファッションなんていうものは、アフリカの原住民として生まれていれば、上半身裸で生活していても何の劣等感もない。洋服を着ているて生活すれば、むしろその方がおかしい訳で、こんな事に「正解」を求めるのは愚かしい行為である。

何故、そんな事が言えるのか。
例えば貴方が大企業の役員の名刺を持ってビジネスをするのと、名も無い企業のヒラ社員の名刺で活動するのとでは、貴方自身は、性格も能力にも何の違いは無くても、相手の反応は全く違うモノになる。
同じ様に、ファッションコーディネーターがコーディネイトした高級ブランド品で身を固め、カリスマ美容室で髪を整え、エステに通って作られた外見で人と接するのと、髪はボサボサで、上下汚れたジャージを着て、人と接するのでは、中身は同じ人間でも相手の反応は「必ず」大きく異なる。

即ち「働く価値」(意味では無く)は、相対的な物であると言える。相対的な価値に対して絶対的な意味付をする事に何の理由があろうか?
「服を着る意味」「ファッションの本来の意味」・・・・

「シューカツ」「コンカツ」とは良く言ったものである。
大抵社会人を続けていると、この「働く意味」を考える時期がくる。
「人付き合いの煩わしさ」、「他人を蹴落とす競争」、「無理解で無慈悲な上司」、「顧客を無視して押し付けられるノルマ」・・・
なんで、こんな想いをしてまで「働いているのか・・・」と感じる時期が来る。大企業、一流企業で働いていてもだ。
同様に、芸能人カップルの様に、お互い美男、美女で、お金にも困っていない人達の結婚は、むしろ失敗する確立の方が高い。「性格の不一致」「価値感の違い」「多忙によるすれ違い」「相手の浮気」・・・
なぜ、こんな想いをしてまで「結婚しているのか・・・」(笑)

就職するまでは採用する側の企業は、如何に自社が働き甲斐があって、成長性があって、公平で中立で、希望に満ち溢れているかをアピールする。求職者側は、如何に自分が役に立つ人間であるかを、色々と勉強してアピールする。綺麗ごとで着飾った「化かし合い」を繰り広げる。
それは言い過ぎだって?
では、一昨年までの様な「売り手市場」と昨今の「買い手市場」で、両者の態度が一変するのはどういう訳だ?しょせんお互いブランド品で固めて、婚活パーティの参加する程度の事。
若くて、美男、美女で、お金を持っていれば、黙っていても人は集まって来るし、逆なら来ない。建前ではお互いの本音を知りたいとか、性格が重要とか、そんな事を言って見ても、所詮、それだけの事だ。小生も採用担当の面接官を務めた事があるが、できる限り本音で話そうと挑んでも、やっぱり本当の会社の実態なんてさらけ出す訳にはいかない。残念ながら・・・

面接官:「うちの会社って対外的には、結構良い会社なんて言われているけど、中は惨憺たるものだよ。優秀な人間はどんどん辞めていっちゃうし、トップは自己顕示欲が強くてわがまま放題。部門は縦割でいつもイガミあっている。
役員連中なんかも、如何に上手く切り抜けるか保身ばっかり考えていて大きな手を打たない。そんなんだから若手も皆やる気を無くしていてね~そうれでもウチの会社入りたいの?」

求職者:「はい、実は私も出来れば仕事なんてしたくないんです。働くとしても、もっと時間を掛けて自分探しをしてから働きたいんですが、現実問題なかなかそうもいきません。親の期待もありますし、親戚や周囲の目もありますから、それに新卒で正社員になっておかないと、いざ働きたくなっても、そうそう良い仕事にはつけないでしょうから、御社なら知名度もありますし、それなりに安定していると思い希望しました。
もちろん、その中でもできれば遣り甲斐がある仕事をしていきたいとは思いますが、そもそも働いた事が無いので、遣り甲斐のある仕事がなんであるかなんて解りませんから。確かに、会社入れば嫌な事も一杯あるんだろうな~とは思いますよ。上司に媚売るなんて柄じゃないですし。
でも、それはどこの会社だって似た様なものじゃないですか。だったら御社の様に、知名度、規模も、安定性も充分な会社に入った方が何かと良いと思うんです」

むしろこういうやり取りをした方が、よっぽど建設的な気がするんだけど・・・・

さて「働く事の意味」、とか「結婚する事の意味」とか言った場合の言葉の重さに比べて、実際に繰り広げられる「シューカツ」「コンカツ」の「軽さ」ときたらどうであろう。
「シューカツ」なら採用する側も、求職側も当人達は大まじめの死活問題と捉えているであろう事は確かなのだが・・・
そして「働く事の価値」が相対的なもとして評価される現実に対して、「働く事の意味」は絶対的なものとして昨今「ありがとうをいっぱい貰う為に働く」とか「仕事を通じて社会貢献をする」とか、定義されてしまう事に小生はなんとも言えない気持ちの悪さを感じてしまう。
結婚式で誓うあの恥ずかしいセリフに似ている。結婚式で、誓いの言葉を宣言しているカップルに向かって「そんなワキャね~だろ」とヤジを飛ばすには相当な勇気が居るが、現実は・・・と言ったところだ。

ところで、この話、当初は就職の選択なんてファションの選択と大差ないと書いていたのに、途中から「結婚」に話しをすり替えた。別に深い意味は無く、学生の頃の恋愛に大層な意味など無く、ある種本能の赴くままに・・・に近い状態でありながら、失恋とか、不倫とか、色々あって後、いつのまにか「結婚とは・・」見たいな、多少なりとも文学的な意味合いを探すのと同じ様なもので、学校を出たばかりの就職活動なんて大した意味も意義も無く、その後社会人として経験を積んでくると「仕事とは」とか「働く意味とは」とか考え出す。という意味で話しをすり替えただけである。

名物経営者が、紆余曲折あったうえで悟りの境地の様に発する「働く事の意味」と、キリストやらブッタなりの宗教家がたどり着いた境地を原点とする「誓いの言葉」。それと、ごく普通の一般人が感じられる範囲とのギャップこそが小生が感じる気持ち悪さなのかも知れない。いや偉い人の言葉に感銘を受ける事は出来ても、現実とのギャップ感。いくら人から感謝される仕事がしたいと考えても、現実としては、給料や労働時間や世間体の方を優先してしまう。
ちなみに環境が悪いから「感謝」されないなどと考えるのは大馬鹿者である。

で、小生何が言いたいかって?
無理に「働く事の意味」なんて考えるな!と言いたい。どんなに現実に悩まされていても「偉い人」の言葉に感銘を受けてそれに流されたりしなさんな!!
恋愛や結婚に高尚な意味や意義なんて持ちこむとかえって失敗する。

働いている(働く事)の現実と「自分を客観的に見つめて磨いていく」姿勢の方が遥かに意味がある。
それは単にスキルアップなどという次元では無く、人間としての成長の事であり、仕事でも恋愛でも結婚でも同じ事だ。

偉い人の言葉が「10」とするならば「10」を求めて努力すると必ず迷う。憂う。「10」を知って、「10出来る」と勘違いするのは破滅への始りだ。しかし自分が「1」である事を知り、「1.1」を目指す事には悩みはあっても迷いは無い。それは周りからの相対評価としての成長では無く、自分自身の絶対評価で計る。

そう考えれば「働く事」も手段でしかない。
「1.1、1.2、1.3・・・・2、2.1、2.2・・・3・・4」そうしていつのまにか「10」になった時に、偉い人の言葉を真に理解する事が出来るかもしれないし、自身が別の境地を切り開いているかもしれない。コンビニのバイトでも、大企業の役員でもこの考え方をしている限りは成長できる。

自分自身の絶対評価をするには、自分の中に「価値基準」が無ければ無理じゃないの?と考えた貴方は賢い。
でも、「価値基準」なんて難しい事考えずに、「如何に自分が生きる」のが結果ハッピーかという事を考えれば良い。ただし、

「ヒルズに住んで高級車に乗って、周りから褒め称えられる。」
「ビンボーでも南の島でのんびりと自然に囲まれて暮らす。」

では無く、もっと人間として深く内面に対して「如何に生きるか」を考える。
それは同時に「如何に死ぬか」と同様の意味を持つ。
自身に対しての死生観レベルの問い掛けだと言って良い。
なんだか難しくなってきたが、一言で言うと「自分はどうありたいか」であり、人間という生き物が、その思考においてしか「Happy」を認知できない以上、それら周辺の事は「ファッション観」から「結婚観」「仕事観」に至るまで、他人の評価に振り回されている限りは何も得られず、結局は自分自身の中に確固たる基準を持つしかないという事だ。

しかし「無理にサラリーマンしなくても、南の島で・・・」サラリーマンは自分らしくなくて、南の島が自分らしいと考える人は失敗する。
サラリーマンの自分が「1」ならば、南の島なら自分「10」になると勘違いするのでは無く(他力本願)、
サラリーマンの自分が「1」ならば、南の島に行く事によって「1.1、1.2・・・2・・・3・・」と自己成長を求めるのであるばあれば良い。
但し、環境が自分を変えてくれると考えるの間違いであり、甘ったれだ。

なんだか脈略が無くなっが、甘ったれた方々を見ていると「働く意味」なんて考える暇があったら、もっと己と向き合え!
と、たまには偉そうに言ってみたい。

2009年11月13日金曜日

日本の起業家って本当にベンチャー?

今週の日経ビジネス紙(11.9号)のタイトルは、「今こそ起業資本主義~立て、日本の草食系ベンチャー」というもの。
草食系ベンチャーとはなかなか上手い表現をするな~と関心したのだが、肝心な記事で紹介されている草食系は2社に留まり、後はインドや、アメリカのベンチャーの紹介と、ベンチャーの支援体制の違い。と、内容に関しては正直もう何百回と目にして、耳に聞いた内容で、この手の話しの結論は、いつもの日本はベンチャーを育てるマインドや制度が不足しているで終わり。
せめて、設立目的や、お金に関する拘り度、資金集めの方法、車やファッションに対する意識など、仮説立てした上で、調査を行い。時系列で企業家達の意識が如何に変化してきているのか?草食系増加のファクトと、それに基づくもう少し深い洞察が欲しい。その上で、今後のベンチャー育成はこうあるべきではないか?という提言が欲しい。


さて、何故日本からは「Google」や「Amazon」が生まれないのか?「ホンダ」や「Sony」だって昔はベンチャーだったではないか?
こう言った話しは、この記事に関わらず、数年前から至る所で議論されている。
政治家、官僚、財界人、成功した起業家、学者、評論家、マスコミといったいつもの顔ぶれが揃って・・・
でも小生も、走り出したばかりの起業家のはしくれとして言わせてもらえば、正直ピンと来ない。
確かに、ベンチャーを取巻く環境として、色々とハード面で見直す事。VCの充実や、国の支援(エンジェル税制など)、融資制度の見直しなど、取組むべき課題は多いと思う。しかしそれらの提言が、実行されたからと言って、日本から「Google」や「Amazon」規模に育つベンチャーが生まれてくるとは、とても思えない。

確かに、この問題を考えた時に、働く事に対しての意識の違い。しいては教育環境、社会環境の違いは非常に多くのウエイトを占めていると思う。
但し、こういった要因は、それこそ「Google」「Amazon」規模の成功事例が出てこないとなかなか変化しないのではないかとも思える。
社会環境が悪いから、育たないのか。育たないから、環境が変わらないのか。という鶏が先か卵が先かの問題の様にも思うが、ライブドア事件が、ベンチャーは「胡散臭い」「虚業」「拝金主義」とイメージを社会に植え付け、一層社会環境がベンチャーに対して閉じた環境になってしまった事を考えると、逆説的だが、やはり一つのムーブメントとして形になるものが生まれ、社会に認知されない限り難しいのではないかと考えてしまう。

この点を考えると、日本におけるベンチャーの位置付け、定義そのものに疑問符がつく。
日本で一般的に「ベンチャー」と認知されているキーワードは「新技術」「アイディア」「他国模倣」などが浮かぶ。

1.「新技術」はバイオやデバイス、ロボットや、IT技術などの先進性のある技術シーズの事業
2.「アイディア」は、技術的な先進性は認められないが、独創性を持ち、今まで誰も気づかなかった分野の事業
3.「他国模倣」は、あまりピンとこないかも知れないが、米国で流行したITサービスなどをいち早く日本で展開する事業

この三点でいうならば、実は日本で一番成功しているのは「他国模倣」だろう。「ブログ」や「ネット広告」「ソーシャルネットワーク」「EC(ElectricCommerce)」など、いわゆるIT系のサービスで、米国で流行したものを、日本でいち早く取り入れた事業。(先進性も独創性も認められない)
日本のベンチャーの成功例として取り上げられる企業。「楽天」や「SyberAgent」「Mixi」などをイメージすると早い。
1.「新技術」や2.「アイディア」の事業は、どうしてもニッチマーケットがターゲットとなっている為、スケール面での限界点が直ぐに来てしまうことが多い。
しかし、それなりに日本で成功している「他国模倣」においても、「模倣」であるが故、国内市場に留まってしまう。この意味では、そもそもの問題提起である、日本から何故「Google」や「Amazon」が・・・に関して、スケール面においてこちらも、既に回答ができ上がってしまっている。

即ち、日本のベンチャーを考える上で、決定的に欠けてている要因は、事業ドメインがそもそもスケールが求められる領域に居ない。という事なのだ。
「ホンダ」や「Sony」を考えた時に、確かに「新技術」や「アイディア」「他国模倣」全ての要素を持って立ちあがったが、戦う土壌がオーディオ、家電、バイク、自動車といった既に大きな市場が求められるメインストーリムにおいて勝負を挑んでいった。という事実が、今の日本でベンチャーを検討する際の観点から抜け落ちてしまっている。もちろん当時の日本の社会環境。即ち、低賃金、円安、労働意欲、勤勉性、潜在的技術力などの要因がそれを可能にしてきたという点では、現在は当時とは比較にならない程、変化してしまった。

さて、一方の「Google」や「Amazon」において、その収益を生む事業のドメインを考えると、その市場におけるコンペチターはよく言われる様な「Microsoft」や「IBM」、日本ならば「富士通」や「NEC」の領域では決してない。
(ちなみにSalesForceのコンペチターは「IBM」「富士通」「NEC」である。(面白い事にIBMは一部で業務提携する事はあってもSalesForceを売る事は無いが、富士通やNECといった会社は、いち早く「売る」事を表明してしまった。日本企業の戦略不在ぷりは、本当に・・・))

「Google」ならば、その収益の多くは、広告収益であり、コンペチターはメディア(TV、ラジオ、新聞、雑誌)もしくは広告代理店である事は少し考えれば解る。「Amazon」であれば、その本の販売が収益の中心を占め、コンペチターは、書店、流通(卸)、である。
この二社が、実際コンペチター達に与えた打撃は計り知れないものである。日本でも、マスコミや広告代理店、書店が窮地に立たされている事実と無縁では決してない。もともと大きな市場性の認められるメインストリームにおいて勝負しているのである。
「ホンダ」や「Sony」が当時の日本の社会環境を武器に既存のオーディオメーカーや、家電、自動車、バイクメーカーに挑み勝利した様に、近年の米国のベンチャーはITを武器にメインストーリームに打って出て勝利をおさめているのだ。

しかるに日本の場合、いつのまにか起業家側も、育成側(VCや国など)も、ベンチャー=ニッチマーケットであり、「新技術」や「アイディア」「他国模倣」に出資、投資するものという固定観念が出来てしまった。起業家も決してメインストリームに打って出る様な事を考えないし、周りもそんな与太話しは支援しようとは思わないだろう。


実は、本来、日本においてなら「トヨタ」や「Panasonic」の事業領域に打って出て、打ちのめす位の意気込みこそが本来求められるベンチャースピリットであり、その為の武器が今の社会環境において何になるか?という事こそが真面目に検討されるべきではないのか。
「Google」や「Amazon」だって、展開するスピードの速さは、「ホンダ」「Sony」の時代とは比べ物にならないが、一番最初に被害を受けたのは、米国のメディアや書店であったはずだ。

自動車や家電は日本の基幹産業でありながら、おかしな事に、これらの企業が今怯えているのは新興国のベンチャーに対してでる。

本来であれば、日本のベンチャーこそがそれを考えるべきで、大きな市場での新陳代謝こそが、その国の産業活力となる。
国が考えるベンチャー育成も、この点をもっと真剣に考えるべきである。
「トヨタ」や「Panasonic」を打ちのめす支援を・・・・だ。

そう考えなければ、日本から「Google」も「Amazon」も決して生まれる事は無いであろう。
既存の大企業の衰退とともに日本経済は没落していく事になる。

2009年10月26日月曜日

で、結局戦略って何?

で、結局戦略って何?


経営戦略、事業戦略、営業戦略、IT戦略・・・兎に角、ビジネスマンは「戦略」という言葉が好き。ミーティングでも必ず一回は「○○戦略」とか「戦略的には・・」という言葉が出てくる。

しかし、本当に「戦略」の意味が解って言っているのかかなり疑問を感じる。

以前、マネジメントの定義も人の数だけある。と書いた様に、「戦略」の定義も人の数だけある。と言ってよい。

日本語は、どんな単語も自国語に取り入れられるので便利は便利なんだが、言葉の曖昧さに関しては事業を行っていくにあたって相当不利があると言ってよい。
ビジョン、理念、ミッションステートメント、戦略、戦術、マネジメント、行動規範、ガバナンス、CSR、マーケティング、・・・さて諸兄はこれらの言葉の定義をちゃんと説明できる自信はあるだろうか?
小生も、適切に表現するとなると少し厳しい。いや、小生がこうであると言っても、「それは違う」と言われてしまえば、辞書を引きながら企業にあてはめると、この意味が正しいなど不毛な論戦で決着をつけるしかない。
結局、この様に曖昧な言葉が企業の中に蔓延しているという事は、軍隊でいうなら、

総大将が「あの山の麓を目指して、進軍せよ」と言い。
各現場の指揮官が「左四十五度に進軍!」。
中隊長が「南南西に進め」。
小隊長が指をさしながら、「あの方向に進め!」。

こんな状態といって良い。にも拘らず、いわゆる「カタカナ語」「社内用語」も含めるともう「言葉の定義」なんてあったものでは無いというのが、日本企業の現状だろう。
これではまともな指揮命令なんてできる訳も無いのだが・・・いや、むしろその曖昧さこそ、日本的サラリーマンの美徳かもしれない・・・
権限も責任も曖昧にしたまま調和しながら進んでいく。そう言えば「役人言葉」は一つの芸術に近い。


さて、「戦略」の英語はStrategyとなる訳だが、そう表現すると何か血生臭い戦争を思い起こしはしないだろうか?それは正しい。

「戦略」は相手がいて初めて成り立つ言葉なのである。
しかし、多くの人が口にしたり、表現する「戦略」の多くは、相手が不在な事が実に多い。
驚いた事に、一応それなりに有名なコンサルファームが策定した「戦略」にも相手が居なかったりする。
相手不在の戦略と一体は何か?これは「願望」といって間違えない。「戦略」が「単なる願望」になってしまっているケースだ。「○○エリアのシェアを○%UPするとか」、「商品ラインナップを充実させ客単価の向上を目指す」。とか、酷いのになると、ひたすら販売目標数字だけを羅列して、これがわが社の戦略だ!と、わけの解らない事をおっしゃる方すらいる。(一度、脳を精密検査してもらった方が良い)

個人で独立しているコンサルやってる方なんかだと平気で、「何を、誰に、どうやって」売るのか?が戦略だなんて恥ずかしげもなく言ってしまう。

このロジックだと、「100円で仕入れたスプーンを、主婦に、ネットで販売する」が「戦略」って事になってしまう(笑)。もう評論するレベルですら無い。

お客様を「敵」と表現するのは不遜な気がするが、企業戦略において相手=敵とは市場であり顧客である。
「味方精鋭艦隊を持って、敵主力艦隊を撃滅す」と言って、それが「戦略」だと言われたら現場はタマッタものでは無い。
販売の数値目標みたいなのを「戦略」と言ってしまっている人は「戦艦2隻、空母3隻、巡洋艦5隻、駆逐艦10隻沈めるのが我が軍の戦略」と言っている様なもので。笑い話しにもならない。
戦争における「相手」が、出来るだけ少ない損害で最大の打撃を与えようと向かってくるのに、こんな「願望」を幾ら唱えた所で勝てるわけない。

企業においての「相手」も(toCだろうが、toBだろうが)、出来る限り支払いは少なく可能な限り良い商品を手に入れようと向かってくるのだ。100円で仕入れたスプーンなら、貴方が幾ら赤字になろうが、50円、10円で手に入れようとするのが相手なのだ。いや単純に「5円でも要りません」と言われておしまいの可能性もある。
孫子が「敵を知り、己をしれば百戦危うからず」といった様に、戦略は「まず相手がどう動くか」が基本なのだ。
「何を、誰に、どうやって」売るのか?では無く、
「誰が、何を、どうやって」買うのか?こそそが戦略の一番基礎に来なければおかしいのだ。それがあってどう動くかが戦略なのだ。

しかも、ややこしい事に「企業」の場合「相手」は市場や顧客だけでなく「競合」という、大きな軸も加わる。
即ち、顧客-競合-自社という3Cのフレームこそが、戦略の立案のベースとなる。
上につく言葉は兎も角、どんな次元の戦略であってもビジネスマンが戦略を口にするなら、全てこのフレームに当てはめて語られていなければおかしい。「経営戦略」「事業戦略」(マーケティング戦略というのは本来このレベルだが、「広告戦略」の意味で使われるケースが多い。)「営業,販売戦略」どんな次元でもだ。
ちなみに「IT戦略」というのは何を意味しているのか、さっぱり良く解りません(笑)、システム屋さんに意味を聞いて見て下さい。

「戦略が現場に落ちないって嘆いている経営者の方、「願望」を「戦略」といって現場に押し付けるのは止めませんか?」
「それ、単なる「ノルマ」ですから♪~~~~~残念~~~~~切腹!」

「そういうお前は?って聞いちゃ嫌。切り!!」

2009年10月23日金曜日

誰が為に金は撒かれる

前回のちょっと補足。

小生、民主党は確かに嫌い。特に幹部連中に関してはもう生理的といって良い位嫌いだ。だからと言って自民党が好きという訳ではない。

ただ、このブログで政治的な話題に触れる時、一貫してるのは民主が、自民が、では無く、国民自身がいい加減意識を変えろという事。

戦後日本は、奇跡的(良い意味で)な「民主的な共産主義」で成長してきた。
一億総中流と言われ、貧富の差が少なく、社会保障が充実し、税金による富の再分配が機能し誰もが、真面目に働けば周りと同じ様な生活が出来る。小生が考えても理想的な国家だと思う。

しかし、バブル崩壊を機に、このシステムを支えていた前提が色々な面で崩れ去った。従来のシステムが通用しなくなった。

それから、ダラダラと「失われた10年」を過ごした後に、「市場原理主義」の導入、
「官から民へ」を打ち出したのが小泉-竹中路線で推進した「痛みを伴う構造改革」だった。
当初人々はこれに熱狂した。IPOブームが起き、時代の仇花といえる「ホリエモン」が脚光を浴びた。
そして時は立ち、リーマンショックがこの路線の熱を完全に冷ましてたのと同時に、一筋の光明を見出したつもりが、それすらも失って、八方塞がりになってしまった。

小生は今の民主党の人気には「民主的な共産主義国家」への回帰への想いが、その根底にある様に思えてならない。
即ち、それはかつての自民党政治へのノスタルジーといってもよいのではないか?

実際に民主党を支持している人は「そんな馬鹿な」と叫ぶだろうが、しかし、では現実に「暮らしが良くならない原因は国(自民党)が悪いから」と言うのは何故か。
裏を返せば「生活は国が支えてくれるもの、仕事は国が作ってくれるもの」=「民主的な共産主義」ではないのか?飛躍しすぎだろうか?
都市部では「箱モノ」中心は限界が見えているので、自民では無く民主。ただそれはイメージで、地方ではむしろ「箱モノ」をやらなくなったから自民に入れる理由が無くなり民主。
自民はダブルパンチを食らった訳だが、箱モノを経由してバラ撒くか、直接バラ撒くかの違いであって、穿った見方をすれば、票の集め易い「特定の人間」により直接的にバラ撒ける様にしたという見方もできる。
郵政の動き見れば、あながち間違った見方とも言えないだろう。
どの道、国民が新しい道を選択したなんて感覚は、少なくとも小生は持っていないし、そこには新しい国家としての成長戦略なんて何一つ見いだせない。
直接バラ撒きで内需を喚起するというが、間接バラ撒きで内需が喚起しないわけでもあるまいに。

話しは戻るが、「民主的な共産主義国家」は決して「助け合い」「共生」の精神を育んできた訳では無い。
その末期のバブルの馬鹿騒ぎを見れば良く解るだろう。
むしろ「利己的な個人主義」を育んできたと表現した方が相応しい。

学校-会社-老後と全て決められたレールを用意して貰う事が当り前過ぎて、自立して生きて行く事が出来ない。
もしレールが外されていようものなら、怒る。だだをこねる。他人が悪いと叫ぶ。拗ねる。
「大企業が悪い」「経営者が悪い」「政治が悪い」「官僚が悪い」
そして必ず、総論賛成各論反対。
公共事業を減らせと言いながら、自分に関わる事業が削減になれば猛烈に反対する。
福祉を充実させよと言いながら、自分が増税になれば「姥捨て山法案」・・・
失業すれば「仕事を紹介しろ」。ならまだましもで「生活を保障しろ」と言う。
こんな話は枚挙にいとまがない。少しでも自分に火の粉が掛れば「おかしい」「理解できない」「反対反対」と喚き叫ぶ。この傾向は民主党政権になっても全く変わっていない。

世代別の政党支持率を見て見ればその実態が良く解る。
色々の出自のデータがあるが、どの調査でも民主党への支持は高齢世代が高く、若年層ほど低くなっている。
実際に「民主的な共産主義国家」を謳歌し「逃げ切った」若しくは「逃げ切り直前」世代ほど高く、実際に格差問題などに苦しんでいる世代ほど支持率が低いという事だ。
これは、単に、不景気に見られるナショナリズムの台頭という表現で片付く話しでは無い。
(例えば右寄りの集会に何十万人も若者が集まって来た。というならそう言えるだろうが)

小生はマスコミvsネットに見られるイデオロギー対決的な要素が民主、自民の差になっている事は殆どないと考えている。それらは寧ろ圧倒的マイノリティーで、殆どの国民は実はあまりその点には関心が無い。
口先では「800兆も借金を作って、次世代はどうしていくのだ」で心の中では「目先の生活をもっと良くしろ」これだけだと言っても良い。
本音では、自分の暮らしさえ上向いて自分の子供さえ豊かなら、他人や未来の社会なんて本音ではどうでも良いのではなのか!?そんな幼稚な精神が煤けて見える。

「共生」を誤解してはいけない。利己主義は他人に依存していなければ生きていけない人間の事だ。他人は自分様を助ける存在でなければならないと考える人間の事だ。自分だけはいつも他人が支えてくれる。と考えるのは「共生」ではない。

もちろん人間は一人では生きていけない。だからこそ、まず自分なのだ。自分にしっかりと自立した精神を宿して初めて、他人を助ける事ができる。それぞれに自立した人間が、他人の自立を助ける。
自立した精神を持っている人は、助けられた時に心から感謝する事ができる。利己主義者は、助けられた時に当然だと考える。

会社に、学校に、他人から与えられた環境でしか生きていけない軟弱な精神の大人の体をした子供達。
今この国に必要なのは「個人への回帰」、「個人の自立」であって、更には、それがあって初めて国家としての自立も成り立つものだと思う。

弱者切り捨てでも、自己責任論でもない。自立した個人が周りの自立を支援する。
低所得者も、老人も、母子家庭も、出来うる範囲での「自立」があって、初めて幸せに繋がる。
自分の意思と、自分の考えで生活をしなければ、自分が満足する事なんてできない。
「弱者」扱いこそ「差別」ではないのか。逆差別、弱者貴族を作ってはならない。

中学卒業してまず社会に出て働いて、結婚して、子供を作り、30歳で高校に入ってその後、アルバイトで過ごし、40歳から大学に行く。その後サラリーマンとして働き、55歳で留学。65歳から作家を目指す。

こんな人生だって全然良いじゃないか。もっと人生は自由であるべきだ。そして自由も自立からしか生まれない。

元々「騙すより騙されろ」と子供に教えてきた日本人。小生は「強欲市場原理主義」では無く、「道徳的市場原理主義」こそがこれからの日本の道だと思う。自立した個人が、公平中立なルールと高い道徳心を持って競争し、国力を高めていく。そして自立した大人が、子供を自立させ、周囲を支える。そんな社会こそが目指すべきで姿ではないのかと思う。

「道徳的市場原理主義」なんて、欧米中では実現したくても出来ないだろう。

小生は逃げ切り、逃げ切り直前世代では無く、初めからレールが外されてしまっている。今の20代、10代、と言った世代が、いつか新しいムーブメントを巻き起こしてくれるのではないかと期待している。
そして、それは、ホリエモンの様な形では無く、もっと社会性が高く、道徳心に富んだものになるだろう。

40近くなった小生は、その土壌をしっかりと築き上げて行きたいと愚考している。

最後に、
民主党が今のまま突き進めば格差はますます広がっていくだろう。
これは小生の予言としてとどめておく。
しかし、今のまま、また政権が変わっても何も期待が出来ない。
まず、変わらなければ行けないのは我々自身であり、所詮政治はそれを映す鏡でしかないのだから。

2009年10月21日水曜日

目的と手段と実行プロセスの狭間で愛を叫ぶ

色々問題はありながらも相変わらず、民主党は高支持率をキープしている様で・・・

まあ、国民が長い事変わらなかった体制、「自民-官僚支配」から新しい道を選択した訳だから細かい事は気にせず、もう少し長い目で見守りましょう。

こんな所だろうか?
自民党政権時代は癒着、利権に支えられ、借金は800兆にも膨れ上がらせた癖に、国民の暮らしは一向に良くならない。

ああ、確かにお陰で小生の暮らし向きも傾く一方だ。


しかし、まあ、なんと言うか相変わらず「情緒」-Emotionで動く国民だことで。

上の様な話しには、何の「論理性」も「合理性」も無い。
あるのは「情緒」と「感情」だけだ。考えても見よ「自民-官僚支配」の具体的に「何処がどう悪かったのか」の検証なんて全く無いのだ。あるのは「天下り」「役人天国」「埋蔵金」「利権体質」とかそんな感情を煽る様な言葉ばかりで、なんの検証も無い。
「天下り」や「特殊法人」を全て無くせば、税金が余り、国民の懐が潤うとでも言うのか?

「官僚主導」では無く「国民主導(国民が選んだ政治家が政策を決定する)」そりゃ確かにそうなんだが、そんな事は「官僚」より「政治家」がアホだったからの一言で片づけられれてしまう。
別に国家が発展していくなら、「アホな政治家主導」より「官僚主導」の方が遥かにマシという意味で。

確かに今の日本の現状(結果)はそれまでのプロセス(官僚主導)に問題があったから。ここに踏み込まないと何も変わらないという理論はある。
しかし、何よりも重要な事は「何を目指しているのか?」の目的であって、その為にプロセスは最適化されるべきものなのである。
どうやってという「手段」では無く、何の為にの「目的」こそが本来問われるべきで、
その肝心な「目的」の方はメチャクチャでも、「細かい事はいいじゃないか。」で、
手段の方に「今までとは違うっ!」て事で、ヤンヤヤンヤの喝采を送るなんてアホ過ぎて言葉も出ない。

あくまで「国民が初めて政権を選択した」という事象が重要なのか。

国民はずっと自民党を選択して来た。800兆のお金は間違いなく国民の誰かが手にして来たお金だ。
(間接的には国民全員が手にして来た)
そのお金を目当てに、自民党に投票してきた人々が居るという事だ。
独裁政権が倒れて、初めて選挙によって民主的な政権が生まれた訳では無い。
民主的な選挙によって、国民自身がずっと「自民党」を選択して来たのだ。
政治家も官僚も国民もなんと無く慣れ合って、後世にツケを回して来たのだ。

しかるに、「政権が変わった事が重要」などとは、これ程馬鹿げた話しは無い。

そういえば、小生、サラリーマン時代会社の中でも散々似た様な状況を味わった。
会社の状況はどんどん悪くなっているのに「皆頑張っているのだから」「評論している時間があれば目の前の仕事をもっと一生懸命にやれ」「会社は自己実現の場だから嫌ならとっとと辞めろ」こんな言葉が会社を支配していた。
次期主力商品の開発に失敗しても、変なコンサルにお金を騙し取られても、誰も何も責任を取らない。
組織として「何故失敗したのか」を論理的に考え、同じ過ちを繰り返さない様にという反省もない。
そう「皆頑張っているのだから・・・」で全部終わってしまうのだ。

こんな発言には論理性なんてひとかけらも無い。
会社はみるみる悪くなっているのだよ。
しかも、恐ろしい事に、客観的に見れば「皆頑張っているのだから」と声高に叫ぶ連中(幹部連中)ほど、実は全く仕事していない。そして数字が上がらない末端の営業マンなどがクビを切られて行く。

「細かい事は気にせず、もう少し長い目で・・・」
その結果、10年後、20年後どうなっている?日本は良くなっているのか?
国民主導というならば逆であるべきだ。
細かい政策の一個一個まで、正しい状況を伝え、国民がチェックしていかなければ国民主導とは言えない。
政治家には「責任」をしっかり持ってもらう必要がある。
何しろ国を動かす「権限」を持っているのだから。

小学校の学級委員長を選んでいる訳では無いのだ。子供達の未来が掛っているのだ。

そういゃあ、最近ビジネスの世界でも「プロセス」や「手段」「方法論」ばかりが着目されていて、肝心な目的は?が置いていかれた感が強い。
例えばITシステムの導入なんて典型的だろう。「ERPを導入した(する)」みたいな「手段」ばかりが話の中心で、肝心な「何の為に?」が良く解らない。

Q:「なんでERPを導入するの?」
A:「業務効率化の為だよ」と言われる。
Q:「何の為に業務効率化するの?」と聞けば、
A:「業務プロセスを刷新して、コスト削減と競争力をアップする為」
Q:「なんで?」
A:「そりゃ、利益を上げる為に決まってるだろ!」と怒鳴られる。(笑)
で:「ERP導入すれば、利益ってあがるの?むしろ随分キャッシュアウトが発生し利益を圧迫しますが・・・」
A:「そりゃ・・・・多分・・・長い目で見れば・・・」自信なし(笑)

こういう笑話しが、結構存在する。

目的の為には手段を選ばず。が良いとは言わない。でも目的もないのに手段に踊らされる程ばかな話しはない。○○式メソッドとか、○○○システムなんて全部手段。


あっ、そう言えば、
鳩山政権の目的は「東アジア共同体の実現」、「温室効果ガス25%削減」と「友愛社会の実現」だっけ?(違ったかな?(笑))
国民はそれを目指して民主党に投票したのか・・・結構、結構、小生の疑問は一件落着。

でも、どれも期間的に、現政権内での実現は難しそうだぞ。という事は、過程(プロセス)として、妙な法案ばかりが出来て、結果どうなるかは、未来のお楽しみという事か?

まあ、それでもあたたく見守りましょうよ。
↑こう、言っておけば村八分にはされないらしいので・・・・


※厳しく指摘する方が重要だと思うんだけどな~ これは小生の個人的感情か!(笑)

2009年10月5日月曜日

で、結局課題って何?

たまには個人的な事でも書こうかな・・・

先週末あるクライアントの所で、現場のメンバーを集めてCPS(カスタマープランニングセッション)というワークショップを開催した。もともとはIBMが行っていた課題抽出の為のセッションで、それをサービスサイエンスで有名な諏訪良武さんがアレンジして体系的にまとめた手法である。

ブレーンストーミングの一種といって良いが、KJ法などとは異なり、連想ゲーム方式で課題を抽出していく為、抽出される課題数が非常に多く、網羅的に課題を浮かびあがらせる事が可能となる。
細かくは説明しないが、トヨタの「ナゼ5回」をワークショップ形式で、体系的、網羅的に行うセッションと言えばニュアンスは伝わるか?

今回は営業の現場(課長-担当クラス)メンバー15名を集めて2日間で約230個の課題を抽出した。
コンサルに入る際にはFaceToFaceのインタビューの形式も確かに重要だが、ここまで体系的、網羅的に課題を集める事は時間の制約もあり難しく、この様なセッションを行う事で現場の課題意識ほぼ全て洗い出して認識する事ができ非常に有効である。
しかし、全く欠点が無い訳では無い。あえて「課題意識」と表現した様に、逆に現場がある事象に対して、その事象を「課題」だと感じている事自体が「課題」であるケースがある。
また、今回は営業部門を対象としたセッションであったが、当然、自部門には甘く、他部門には厳しい内容になりがちでもある。
営業部門であれば、大抵、製造や開発、間接部門のやり方を「課題」と表現するし、逆に「開発」や「製造」部門でセッションをやれば「営業」が「課題」を引き起こしていると表現するだろう。

これは、殆どの企業で起こる「問題」である。
しかし引き出された「課題」を、そのまま鵜呑みにして表面的な解決を計ろうとしても、殆ど成果は生まない。
あくまで「現場の課題」を引き起こしているシステムの課題にメスを入れなくてはならない。
即ち「組織」の問題だ。

現場の課題だから、役員レベルなら解決できる問題という訳でも無い。どこかの国の官僚機構の様に、各機能組織の長は、自分の組織の最大の利益代弁者であるからだ。
CPSの様なセッションを各部門で実施すると、今以上に部門間の対立を引き起こしてしまう危険性がある。(もちろん各部門間で、課題意識が共有され解決に向かう面もある。)

我々にしてみれば、CPSを実施した後こそが本当に大変なのである。
本気で改革を進めようとすれば、部門の役員レベルとは利益が相反してしまう可能性が高い。
この点において、コンサルタントは残念ながら「政治性」を発揮する必要とされる。
真正面から、「本質的な課題」に向き合おうとすれば、いきなり梯子を外される自体になりかねない。
殆どの場合は「社長」と密に連携して進めていく必要性があるのだが、もちろん外部の人間と、今までずっと一緒に事業を推進してきた役員とで、どちらが信頼されるかは考えるまでもない。

改革のキーマンは間違い無く社長だが、現場や役員クラスにも、理解者、支援者をしっかり付けておく必要がある。
この事において重要なポイントは、政治性は必要だが人事には染まらない事だ。
社長の信任を得ると、どうしても具体的な人事に触れたくなるし、相談も受ける。

確かにあの役員では・・・とか、あの部長では・・・という個人の資質に寄って引き起こされている課題も多く、異動、更迭によって解決する可能性も高いのだが、その点には決して手を出さない。
人事は権力そのもので、権力は密の味だ一度覚えてしまうと必ず溺れる。部外者であるコンサルタントがこの密の味を覚えてしまうと、現場はとんでも無い事になってしまう。

あくまで問題を引き起こしている本質的な原因に向きっあっていく。それは人の問題では無く、人が問題を引き起こす様に仕組まれているシステムの問題。

つくづく因果なショーバイだと思う。てめぇのおまんま食うだけでも必死なのに、他人の為に眠れない日々を過ごす。投げ出したくる気持ち、手を抜きたくなる気持ち、目先の売上に走りたくなる気持ちと、どこまで戦えるのか?がいつも問われる。

ところで、課題を抽出するセッションなのに、何故カスタマープランニングセッションなのか?
簡単な話だ。「問題は目標と現状とのギャップ」という様に、全ての課題は、顧客により良いサービスを提供し、利益を生む為に解決されるべきなのだ。そして顧客と向き合っているのは現場だ。現場こそ真実の瞬間だ。
現場に迎合するのでは無い。顧客により良いサービスを提供する為に現場をもっと(気持ちよく、前向きに)働かせる。

企業のシステムというのは、唯一その為に最適化されたものであるべきなのだ。

しかし、企業のシステムは時間が経つと、いつのまにか無駄を生み、壁を作り、社内で敵対し、政治がはびこる・・・誰もおかしいと解っていながら何もできなくなる。飲み屋で愚痴を言って発散する。表面的な課題は一杯あるので会議が増える。結論のでない小田原評定を繰り返す。しかし解決しない。顧客の目を見ないクズ組織が生まれる。
これが「茹でガエル」である。



「茹でガエル」は自分では気づかない・・・・・



だからこそ我々が存在するのさ!
絶対に良くして見せるさ!頑張ろう!

2009年9月15日火曜日

で、結局マネジメントって何?

マネジメントとは、

考えれば考えるだけ良く解らない。恐らく人の数だけ定義があると言ってよい。
不況下の今、マネジメントの大家、P.ドラッカーの本が、再び書店で平積みされているのを見ると、正解を求めている人がそれだけ多いという事なのだろう。今回は非常に重たいこのテーマに触れたい。

小生が幾ら、このブログで「マネジメント」の言葉の定義をした所で、それは星の数ほどある定義の中の一つであって、それが正しいかどうかなんて事は殆ど意味をなさない。その前提で勝手な持論を展開する。
またマネジメントだけではあまりに広いので、企業におけるマネージャーの役割としてのマネジメントを考えてみたい。

小生それなりに色々な企業を見て来たが、この会社の「マネジメント」は素晴らしいと感じた会社は、殆どといって良いほど無い。大企業、外資、日本企業、中小企業、業種、業界、規模問わずだ。

その中でも、「日本型」という点に着目するならば、常に違和感を感じてきた。
「マネジメントと管理は違う。」
飽きる程、聞いてきた言葉だが、上手い表現かと問われれば決してそうとは思わない。

解り易く、伝わり易く小生が考えるマネジメントが如何にあるべきかを伝えるとすれば、マネージャーの仕事は「芸能事務所、芸能人のマネージャ職を思い浮かべれば良い」と表現する。
芸能事務所のマネージャー的なマネジメントこそ、一般企業のマネージャー職にも求められる姿勢だと考える。
芸能事務所のマネージャーといえば、華やかな芸能人の、裏方、雑用担当、と、そんな姿を想像しがちだが、この仕事の目的は、えげつの無い言い方をすれば、担当する芸能人を最大限活用して、最大の利益を得る為の仕事である。

芸能人というのは、容姿や歌唱力、演技力、会話上手など一芸に秀でた人間が選ばれるものだが、芸能人になるまでは、その辺にいるタダの人である。本人がサラリーマンやOLの道を選ぶならば、ちょっと素敵な人、歌のの上手い人となるだけの存在である。年収は他の人と変わらない。
しかし、芸能人が注目を浴びてスターとなれば、莫大な経済効果を生む。この違いは圧倒的である。
もちろんタダの人がほっておいてもスターとなれる訳では無い。本人の一芸が素晴らしく秀でている。とか、血の滲むような努力。とか、そういった要素もあるが、芸能事務所のマネージャーの業務は、それらも含めてスターに育成すべく、特徴を活かしたキャラクター作り、営業活動、仕事の選択、スケジュール管理を行い、時にはメンタルヘルスや、モチベーションにまで業務の範囲が及ぶ。
しかし、それはあくまで献身的なボランティア精神に寄るのでは無い、あくまで与えられた資源(芸能人)を活かし利益を最大化させる事がその本質としてある。そして何より、一番重要な事は、マネージャー≠芸能人という点だ。

そんな事は当り前じゃないか?と思う方も多いだろう。

では、貴方の会社は如何であろうか?

残念ながら、マネジャーとプレーヤーの線引きが明確な企業は殆どない。
むしろ、小生の見る限り、9割方は、

●マネージャー=芸能人
●部下=付き人、弟子 

という関係で成り立っている会社が多い。

「仕事は盗め」「背中で語る」などの言葉がある様に、マネージャーは仕事を教える人。部下は仕事を教わる人。といった関係が実に多い。マネージャー「仕事をする人」、部下「上司の仕事をフォローする人」と言っても良い。
そこには日本の伝統的な芸能、学問、工芸に見られる師弟制度の延長を感じる。
師匠が弟子の「管理」をしているか?といば、徹底的な従属関係があるだけで「教わる事は」あくまで弟子側の自発的な姿勢こそが求められ、師匠自体が積極的に弟子を育てるという事はしない。弟子自体が一人前になりたいという強い欲求がなければ「去る者は追わず」の世界である。

この事を考えると「マネジメントと管理は違う」という表現は、外れてもいないが、上手い表現だとも言い難い。

日本の伝統的な師弟関係の美徳、悪徳をここで評することは意味を持たないので行わない。
しかし、営利目的で、且つ弟子入りが目的で社員が入社してくる訳では無い企業においては、「マネージャー=スター、師匠、マイスター」で、「部下=付き人、弟子、雑用員」という関係は、経済合理性に欠いていると言わざるおえない。
一人のスターに、例えば5人の付き人を付けた所で、スターの今の生産性が「1」であるならば、いいところ「1.3」に伸びる程度であろう。むしろ付き人の面倒を見る為に「0.9」に落ちてしまう可能性すらある。
しかし、マネジメントにおいて、5人の部下をそれぞれ最大限に活かしたならば、スター1人「1」準スター1人「0.8」、卵3人「0.2」としても、
「2.4」の生産性が得られる。更に準スターや卵達をスターに育てられれば、最大「5」の生産性を得る事ができる。そう考えればマネージャーこそ雑要員とも言える。
手段に関しては、業種、業態、戦略などにより大きく異なる。ビジネスモデルに応じて、徹底したマニュアル化、オートメーション化により最大化を求める事もあれば、不確実性の高い分野であれば、知識の伝播や、瞬時の合理的判断によって、最大の成果を求める。

どの様な手段が適しているかは離れて、経済合理性で見るならばマネージャーとプレイヤーは完全に分離されるべきである。
これはマネージャーに与えられた、プレイヤー群の中に、スターとスターの卵、師匠と弟子が居る事を否定するものでは無い。

与えられた資源で最大現の成果を求める事にこそマネジメントの本質がある。
と、小生は考えている。

しかし残念な事に、「マネージャーは外や現場に積極的に出て行くべきだ」いや「マネージャーは、現場とは一線を画しプレーヤー的な業務はすべきでは無い」といった低次元で、幼稚な、実にくだらない議論が多く行われている。
あくまで最大の成果を得る為にはどの様にあるべきかが主眼であり、外に出た方が良ければそうすべきだし、出ない方が成果があがると考えるのであれば後者でも良い。正直どうでも良い事だが、あえて日本的なあるべき論でいうならば、殆どのケースで前者を選択した方が良いと考える。
しかし、それにおいても「マネージャー=スタープレーヤー」であってはいけない。(百歩譲って、元スタープレーヤーというならばまだ良いが、現役では絶対に駄目だ)

この点は日本型経営の大いなる欠陥であると小生は断言する。スタープレーヤーをマネージャーに任命して師弟制度にて、次のスター候補を見つけ、一子相伝で育てあげて行く。確かに技術的な面においては、この様な上司と部下の関係が、根底において日本企業を強くした面は否定しない。しかし先に述べた様に、これは断じてマネジメントでは無い。企業においては非合理である。
マネジメントにおいてプレーヤーの高度な技術やノウハウが一子相伝で伝える事を否定するのでは無く、それを包括して、組織の価値、成果を最大化していくのがマネジメントである。
即ち小生は、日本型マネジメントが間違えているのでは無く、多くの日本企業において、そもそもマネジメント自体が欠落している事を指摘している。
日本企業の多くは、愛社精神を育み、社内の信頼関係を重視し、技術やノウハウの伝承を行ってきたからこそ、強かったのでは無いか?経済合理性ばかりを追求する欧米型はやっぱり駄目だったではないか?そんな考え方を取り入れたから日本の企業も一緒に駄目になってしまったのではないか?

そうでは無い。それを含めて合理的に経営モデル自体をイノベーションさせる必要がある。

確かに欧米型の多くは、マネージャーとプレーヤーの線引きが明確である。上司も部下も経済的な成果のみを求めるあまり、給与に照らして、生産性が低いプレーヤーはとっととクビを切り、成果が上げる体制を組まなければ、マネージャー自体もクビが切られる(トップマネジメントであっても)。プレーヤー自身も、より楽で儲かる仕事が見つかれば我慢などせず、さっさと転職してしまう。
この様な経営モデルが弱さを持っている事も自明だ。
だからこそ、それを踏まえて合理的に、長期視点に立ち、技術、ノウハウの伝承、仲間との信頼関係、組織への愛着、創業者へのリスペクト、など短期の利益以外の多様な価値感を持つ日本型を活かす真のマネジメントが必要なのだ。ここに至ってマネジメントの放棄だけはあってはならない。(ここではあくまでも冷徹に、最大の成果を得る為の極めて合理的判断として)

部下、いやプレーヤーを活かし最大限能力を発揮させる事によって最大の成果を得る。この為に必要な事は、

第一条件として、一般的に見られる「マネージャー=上司」、「プレーヤー=部下」という従属関係、師弟関係を破棄する事。
第二条件として、プレーヤーこそ利益を生む中心であり、スターである。マネージャー自身は、原則なにも生み出さないコストである事を認識する事。(トップマネジメントであっても)
第三条件として、よってマネージャーは、組織の成果を最大化する事に対して責任と権限を持つ事。(日本的には長期視点に立った)

第一条件に違和感を覚える人も多いだろう。しかし第三条件によって権限を持つ。それは人を従属させ操る権限では無く、成果を最大化させる為の権限である。即ちむしろ「プレーヤー」を補完する立場と言った方が近い。
第二条件においては、マネージャーが直接「利益」を生んでは行けない。とも言える。あくまでもプレーヤー達に「利益」を生ませる事に、その存在価値がある。と言っても過言ではない。

如何であろうか?この小生の勝手な三つの条件に照らして、芸能事務所のマネージャー職こそが一般企業にも求められるマネジメント像に近く、日本企業の9割はマネジメント不在と表現した。

「成果」を「短期の利益」とするかどうか、そもそも「成果」=「利益」で良いのかの議論は、ドラッカー先生の本を読んで考えて見る事をお勧めする。
そして、これを読んだ貴方が規模や部下の人数を問わず、経営者なり営業課長なり、マネージャーという立場であるにも関わらず、会社の中で燦然と輝くスタープレーヤーであるとするならば、少し自身に振る舞いを考え直した方が良いと思う。
日本のベンチャーがあまり上手く行かないのは、やはり芸能界で例えるなら、スターを次々と生み出す画期的かつ効率的なモデルの芸能事務所を作ろうというものでは無く、自らがスターを目指してしまう所に限界がある。
「いや、うちは大手や他社と違って画期的なビジネスモデルを持っています」と言うが、実態は、「今の大スターや他の芸能人が持っていない「一芸」を持っている。だからきっと私は大スターになる。」という事が多い。それはそれで立派な事ではあるが、やはりマネジメントが不在なのだ。

あまり上手い例えではなかったか・・・・どちらかというとビジネスモデルの説明になってしまった。

マネジメントそのものをイノベーションせよ。
それが、明日への道となる筈だ。

2009年9月10日木曜日

市場の破壊者は下からやって来る!

三菱がi-MiEVを発売、日産がLEAFを発表と、EV(電気自動車)が、次世代自動車として注目を集めている。
恐らく、EVの分野でリードしているのは日本だろう。
(中国やアメリカからブラフっぽい情報が飛んでくるが)

では、日本が今後も自動車産業で主役で有り続けられるか?
小生はかなり疑問視している。

ではEVに力を入れ復権を狙っているアメリカ、以前大きな力を持っているドイツ、檄安ナノを作ったインド、どこが、これからのこの産業をリードしていくのか?

小生は中国では無いかと思っている。中国の車といえば、パクリカーばかり作って品質の悪いイメージしか無い。少なくとも、内燃機関の自動車にしろ、EVにしろ、まだまだ日本車に追い付くのは時間が掛ると考える人が多い。確かにそうなのだ。それは間違いない。中国の自動車産業が技術を幾ら輸入した所で、自動車で日本企業が築いてきた競争優位性に追いつく事は難しい。日本企業は更に高い次元に行ってしまうのだから。

しかし、違う。そういう既定の枠に捉われて物事を考えると、大きく事を見誤る可能性がある。既定の自動車市場の枠で考えていると足元をすくわれる。

車はどんどん大きく、豪華になっていく。マーケットの声に応じて、より大きく、より燃費が良く、より快適で、より安全で、・・技術を磨き、今よりも付加価値を上げる・・・自動車に関わるプレーヤ全てが、その点を磨き競争をしている。
日本の、EVもその延長線にある。あくまで持続的イノベーションの範囲なのだ。即ちレコードプレーヤが、CDプレーヤに取って代わったのと一緒で、確かに重要な事ではあるが、この技術はウークマンでも、i-Podでも無い。
28万円カー、タタのナノが破壊的か?これは既定の技術をチープに焼きなおしたもので、ヒットするかもしれないが、破壊的とまでは言えない。いわば数千円で売られていた簡易レコードプレーヤに近い。

では、何故、中国なのか?
今、中国では電動スクータが大人気らしい。小生はこの事を知って稲妻が走った。「これこそが破壊的では無いか!」予言的で、本当にそうかどうかは解らない。

電動スクーターは大きくは二種類あって、電気で動く自転車タイプと、電気で動くスクータータイプ。価格もエンジンで動くスクーターと殆ど変わらない。ガソリンスクーターのガソリン代が電気代で済むメリットは微々たるものだ。粗悪な中国製が世界でヒットするのか?

しかし、スクーターなので、バッテリーが小さく、取り外せて家で充電する事が出来る。社会インフラの充実を待つ必要は無い。オイル交換などの手間も掛らない。あの小うるさいエンジン音もない。
いざ、同じ価格で、ガソリンスクータと電動スクーターを並べられた時に貴方はどちらを選択するのか?
幾ら日本企業が高性能なガソリンスクーターを作った所で勝負は見えているのではないか?
日本企業ではヤマハが2002年に電動スクーターを発売しているが、あくまで試験的であり、しかもバッテリートラブルで販売中止となっており、本気で電動スクーターを販売している企業は無い。

中国の電動スクーター市場は今年は3000万台近い数字が予想されている。既に3000万台のEV(電動スクーターだってElectric Vehicleだ)が、便利に生活や企業の道具として動いている事実に驚かざる負えない。
正直、電動スクータなんて大した技術では無い。おそらく部品さえそろえば小生でも組み立てられてしまう。
しかし逆に言えば、単純で部品点数も少ない電動スクーターはバッテリーの価格さえ下がれば、エンジンスクーターの半値で販売する事だって可能になってくるだろう。これだけ普及してくれば、どんどん量産効果が得られ、間違い無くコストは下がっていく。そうなれば他の新興国でも大いに普及する。
幾ら日本が高機能な電気自動車を追求した所で、新興国での普及には相当な時間が掛る。

例えば三万円の電動スクーターが出ればどうなるのか?これが何を意味するのか。自転車とも競合してくる価格だ。
日本でも、自転車通勤が流行っている。自動車通勤や満員電車を回避する事が目的だ。但し10キロ以上になってしまうと運動などの目的が無いと正直辛いのが現実だろう。
ママさん達が子供を前後に乗せる事で問題視された3人乗り自転車の事も、少なくともママさん達の労力という点では、解決してくれる可能性が高い。

実際、自転車型の電動スクーターが部分的に大阪で流行って、警察は慌てて取り締まりを強化に乗り出した。
(フル電動だと原付扱い)

しかし普及が進めば、必然的に新しい時代にあった新しい法規制が出来て、店舗に駐車?駐輪?スペースが出来て、充電スタンドが置かれ、インフラが整う。(何故なら人はより便利さを求めるから)
(今の日本の様に無理繰り税金でインフラを整えて普及させようというアプローチには違和感を感じる)

普及が進めば、雨風をしのぐ工夫や、多人数乗車などの発展も進むだろう。そうなれば、今度は自動車がコンペチターになる。平日は使えず、土日のチョットしたドライブや買い物に、本当に3ナンバーの大排気量車が必要だろうか?200万のハイブリッドカーならいいのか?

そう、破壊的イノベーションは常に下位レイヤーから現れるのだ。ホンダの海外進出の足がかりを作ったのは、高性能バイクでは無く、安くて便利な「カブ」だった。「カブ」から高性能バイクや自動車に発展して、既存のメーカを追い出したのだ。

「電動スクーターこそ破壊的」さて、小生の予見は当たるのか?

ただし、勝利するのは電動スクーターメーカでは無い。電動スクーターメーカは単なる組み立て屋で、本当の勝利者は電池メーカだ。
中国には既に電気自動車を走らせ、リチウムイオン電池で世界3位のシェアを握る(と言われる)有名なBYDがある。リチウムイオン電池も、まだまだ日本企業の技術の方が勝っているって?

「でも、そんなの関係ね~♪」

BYDの電池を以て、数億台の電動スクータが動き出したらどうなる?ウォーレン・バフェットが同社に投資した意味。
よくよく考えて、本気で頭使わないとやられるよ。日本の自動車メーカは。

2009年9月7日月曜日

売上のジレンマ

最近、色々な経営者の方に「売上を一次的に落としてでも○○すべき」です。
と言っている気がする。

もし仮に小生がコンサルタントだとすれば、とんでも無い事だ。
「売上を3倍にする」とか「必ずコスト削減できる」とかそういった売り文句のコンサルタントは掃いて捨てる程存在するが、「売上を落とすコンサルタント」ではシャレにならない。

例えば、前職でも「で、それやると幾ら売上伸びるの?そういう事例はあるの?」
という言葉はクライアントから頻繁に聞かれた。
心の中では「上がるか!ボケェ!」と言いたい処をぐっと抑えて、「それは貴方方次第ですよ」っと、優しく説明した。もちろん売り込まれている方は「また怪しげな奴が売り込みにきやがった。うち社長はこういう連中に騙され易いからさっさと追い出してやろう」位に思っている訳だから、話がかみ合う筈も無く追い出される。

しかし、仮にも社長に「売上を落とせ」と、のたまうからにはそれなりに覚悟がいる。
企業にとって「売上」は全ての源だ。幾ら「利益重視」といった所で、「売上」がなければ「利益」もへったくれもない。

ところで「パレートの法則」というのをご存じの方も多いだろう。売上の80%は20%の製品で稼いでいるとか、2割の営業マンが8割の売上を稼いでいる。とかいわゆる2:8(ニッパチ)の法則とか言われているアレだ。
例えば5つの商品を展開する会社で、商品Aが全社の売上の8割を稼いでいるとしよう。残りのB、C、D、Eという商品は、一応、カタログには載っているが、殆ど売上を挙げていない商品群だという事になる。しかし、それらの商品であっても、製造したり、販促物を作ったりの手間暇は、主力商品Aと大差ない。
だからと言って単純に、B,C,D,Eからは撤退して、商品Aに注力すれば良いという問題では無い。

商品Aが、BCG(ボストン・コンサルティング・グループ)が提唱して、一時期ブームになったPPM(プロダクト・ポートフォーリォ・マネジメント)でいう所の、「花形商品」(市場成長率が高く、相対シェアも高い)であれば良いが、「金のなる木」(市場成長率が低く、相対シェアが高い)であれば、収穫期であり、しばらくすれば、「負け犬」に落ちてしまう。市場成長率が高く、自社のシェアが低い分野を見つけ投資していく必要がある。(PPMでは「問題児」)

そう、主力商品Aが、これからも明らかに伸びて行く市場であれば良いが、ジリ貧になる事が解っている市場だった場合、明らかに別の「打ち手」が必要になってくる。それを既存商品群から探すか、全く新規に開発するか、のどちらかである。もちろん米国流であれば収穫期を終え、負け犬に落ちた(落ちそうな)事業なり、商品なりは、とっと売却して、新しい成長分野はよそから買ってくる。で良いが、日本企業でそんな事は難しい。
(日本で経営と執行の分離と言う言葉が流行り執行役員制度がかなり普及したが、向こうでいう経営は、こんな事ばかり考えている人達の事で、物作りへの愛着や、現場への拘り、なんて皆無な人達といったら極端だろうか?社員や事業に愛着のある日本の経営者はそこまでドライには考えられないという点で)

さて、主力商品Aが収穫期から「負け犬」への移行期にあるとしよう。何しろ全社の8割の売上を誇る商品だから、ほっておけば会社ごとジリ貧となり、やがては倒産となる。
この事は解っている。何か手を打たなければまずい・・・・しかし現実は何一つ変わらない・・・変えられない。

小生はこれを勝手に「売上のジレンマ」と呼んでいる。
何故か?「今まで自社の成長を支えてくれた愛着がある商品だから」というのもあるかもしれないが、殆どは「売上」が原因だ。
例えば、この会社の商品全て、高額かつ、商談期間が1~2年掛るとしよう。会社の年商は50億。
去年の商品Aの売上は40億という事になる。市場の衰退によって、今年は前年比9割の36億に落ちるかもしれない。しかし、逆ににいうと、人や金という資本の投下を去年と同じ配分で行っておけば、36億はキープできて、全社では46億の売上が保てるのだ。
逆に、商品Cを次の成長ドライバと捉え、人や金を大量投入すればどうなるか?商談期間が1~2年だから、今年の商品Cの売上は、前年比同様の2億(10億/5)に留まり、リソースを割かれた商品Aは、一気に売上が落ちてしまう可能性が高い。仮に20億位まで落ちれば、全社の売上は30億にまで下がる。しかも本当に商品Cが次期主力商品に育ってくれる保証はない。

さて、こんな極端な例を出すと、「そんなに単純じゃね~」って言われそうだが、「売上のジレンマ」は、もっと現場レベルでも起きている。

例えば営業マンであればどうか?

主力商品が、なんとなく市場成長が止まってきている事は肌感覚でつかんでいても、ノウハウもあり、顧客もついている。会社が戦略商品、重点商品への注力を指示してきても、ノウハウも無く、顧客も新規に開拓しなければならないとすれば、うかうか手を出せない。今までどおり、主力商品をやっていれば、昨年の9割は保てる。いや、営業マンは全体を俯瞰しないので、自分は昨年同様、もしくは、昨年以上の結果が残せると考えてしまう。たまたまその営業マンは昨年以上の成績を収めるかもしれないが、結局全社では売上減となる。

「物売り型営業からソリューション営業」に。という言葉は近年流行った言葉である。
簡単に言えば、自分のノルマを達成する為に顧客の都合は無視して兎に角売り込む。こういうスタイルから顧客が抱えている課題を共有して、その課題を解決する様な提案をしていこう。というものだ。ごもっともな話しだが、「顧客の課題」が自社の製品で解決できない場合はどうするのか?
「弊社の商品では、今回の課題は解決が難しいです」と素直に言えば、確かに長期的には信頼を得られ、後々の売上に繋がっていく可能性はある。
しかし解決ができなくても「大丈夫です。コレ買って貰えば必ず解決します!」と、なんの根拠も無く売り込めば、一時的な売上は上がるが、顧客の信頼を無くし長期的には駄目になる。
ノルマに追われているのに「一時的に売上が落ちても、長期的に見れば・・・」と考える殊勝な営業マンがどれほど居るだろうか?
経営者だって「ソリューション営業の実践」とか、上辺では格好の良い事を言っておきながら、イザ、期末で売上が足りないと、「何でもいいから売ってこい!!」と、檄を飛ばす人が実に多い。

他にも、顧客ターゲットなんかもそうだ、「ポテンシャルがあるが自社のシェアが低い顧客」をターゲット顧客として注力していく。期初には、それこそコンサルとかに騙されてこんな方針を出す。しかし、現実問題、ポテンシャルがあるが、自社のシェアが取れていない顧客というのは競合とベタベタな企業という事になる。こんな顧客に種まきからコツコツやっていたら、売上が上がるのは何時の日になるか解ったものでは無い。
それより、今付き合っている顧客から、安定して売上を上げた方がよっぽど現実的だと考えるだろう。
「ターゲットに注力していたら、今年は売上ゼロでした」って許して貰える会社なら良いけど・・・
(でも上記三点位なら、経験上、実際にはそれほど売上落ちない)
こういう事が重なって、結局は「売上」がハーメルンの笛吹き男となって、悪い方へと行進していってしまう。

結局、経営者であれど、いや経営者であるからこそ、頭では解っていても「売上が落ちる」という現実に、建設的に向き合うのは難しい。迷う。ためらう。しかし、病気を治すには、時は、外科手術や劇薬を飲む(痛みを伴う)必要がある時もあるのだ。

「契約頂ければ、必ず売上を伸ばします」と気持ちの良い事ばかりを言うコンサルタントを信用しますか?
(結構、一時的な売上を伸ばすのは簡単。例えば訪問件数ノルマとか、テレアポノルマとか徹底して物量を増やす。質はトークスクリプトをロープレで徹底的に仕込む。今までダラダラやっていた組織はコレだけで、一時的には売上は上あがる。しかし結局こんなことで伸びるのは、今まで手抜きをして落ちていた、ストレッチ部だけで、結局はマーケットに淘汰される)

本気でクライアントの事を考えていれば、時として建設的に売上を落とす為の背中を押して上げる事も重要だと思うのだ。だってほっとけばどのみち倒産なのだ。
もちろん死ぬ直前のクライアントに、外科手術を強行すれば体力が持たず、そのままご臨終になってしまうので別の方法が必要だ。
そうなる前に、売上を落とすコンサルティング。如何でやんすか?
(やっぱり駄目だよな~)

2009年8月31日月曜日

変われないのは何故?

民主党の圧勝。

ところで、鳩山代表の故人献金の問題はどうなったのであろうか?
小沢代表代行の西松建設の献金の問題は?
どちらの問題も、グレーというより、真っ黒に見えるのだが・・・
それに「秘書が私の知らない所で勝ってにやりました」って古典的な言い逃れして、
もうこの時点で、政治家以前に個人の資質に問題があるとしか思えないのだが・・・
一般企業の不祥事でも、社長が記者会見で、社員に責任をなすりつける様な事をすれば、倒産するまでマスコミに追い込まれるのに・・・

本当に、国民はこんな連中に総理大臣とかになって欲しいのだろうか??
普通に考えたら、あり得ないと思うのだが・・・
自民か民主かの選択の前に、こういう連中が国会議員でいる事自体不思議でならない。

ところで、今回の選挙、自民党と民主党で戦略を比べてみると、そりゃもう選挙する前に民主党の圧勝。
と、思える。
小生の周りを見ても、これだけ選挙が盛り上がっていても、しっかりとマニュフェストを見比べている人なんて、殆どいない。
逆に勝利するであろう民主党の政策は「なんとなくバラマキっぽい。実際にはどうせ財源もないし無理だろう」と言っている人が多い。でも民主党に入れる。

実際に、自民党は直近、世界同時不況を理由に、定額給付金や高速道路1000円、エコカー減税、エコポイント、スクールニューディール、etc これでもかって程ばら撒いた。

しかし、支持率は全く上がらず、今回の結果である。

多くの国民は具体的な政策などでは無く「風」というか、「潮流」と言えば良いのか、ぼんやりと熱い流れに従って投票行動を決める。今、多くの国民が望む事は、閉塞感の打破、即ち「変革」を求めている。
郵政選挙の時、小泉自民が圧勝したのも正に「変革」に期待したからである。
実際の「小泉改革」の中身なんて、正直ほとんどどうでも良かったと言えば言い過ぎだろうか?
しかし、現実にあれから数年で、あれほど支持した国民自身が「小泉改革は失敗、格差社会を生んだ」と評価しているのだから、やっぱり改革の中身なんて、どうでも良かったに違いない。
だから今回の民主党の政策も正直どうでも良い。とにかく現状を変えたい。というのが本心である。
言い過ぎだろうか?
しかも、今回は世界同時不況という追い風もあった。(不謹慎だが)

だから、自民党が「民主党のマニフェストはばら撒き」とか「外交・安保面で左翼的な思想が入りこんで危険」とか言ったところで無駄。
変革を求めている国民に対して「変わろう」と訴えてる民主党に対して、自民党が主張している事は「変わるのは危険」。
これじゃ、どう転んだって勝てっこない。
郵政選挙の時は「自民党をぶっ壊す」とか「痛みを伴う構造改革」というキャッチフレーズの前に、与党の批判勢力である野党各党は「色」を失って大減速した。この時の構造に似ていなくもない。

しかも民主党は一番国民が喜びそうな「官僚支配からの脱却」を旗印にした。これで自民党は錦の御旗を失った様なものだ。
官僚寄りと言われる麻生首相では掲げられない「旗」だ。

明治維新の時は、面白い事に、「尊王攘夷」なんて非現実的な政策が、明らかに現実的な政策を取っていた幕府「佐幕開国」を押し切ってしまった。(本物の錦の御旗と武力によってだが)

今回の選挙で自民党が勝利するには、民主党以上に過激な「変革」を謳うしかなかった。
中身の実現性なんて無視してでも、だ。
なのに「変わると危険!」では、勝負にならない。
その意味では、麻生総理はやっぱり・・・(まぁ、政策的には、それなりに無難にこなしてきたとも思うが)

さて、遡って小泉改革とは何であったのか?
基本的な方針は「官から民へ。様々な規制を撤廃し、官主導の公共事業を無くし、民間にできる事は民間に任せる。」
また、膨れ上がった借金を正常化する為に、プライマリーバランスという言葉を使い、歳出を抑制する目標を掲げたのも見過ごしてはならない。いわゆる「小さな政府」を目指した事が小泉改革と言って間違いないだろう。
その目玉が「道路公団民営化」であり、本丸としたのが「郵政民営化」であった。中身は兎も角、その事はやり遂げた。(ちなみにこの時は民主党でも民営化に賛成する議員が多数居た事は忘れないで欲しい)
それこそ官僚に骨抜きにされて形だけ。という面も強く米国の圧力も含め再点検は必要だが、実際に公共事業も大幅に減り、一次的にはプライマリーバランスが正常化し、経済が上向いた事も事実だ。(麻生政権でご破算)

その意味では、善し悪しは抜きにして、小泉改革こそ「小さな政府=脱官僚」と呼んで良い物であった。

一方の民主党の主張は小泉改革に比べると、全く具体性が無い。「100人以上の政治家を各省庁に送り込む」とか、「事務次官会議を無くす」とか言っている様だが、これは安倍政権の時に自民党がやった手法の延長。
「国家公務員を2割削減する」と言っているが、これは騙し絵見たいなもので、良く見ると2割を地方公務員に変えるだけで、
総数は全く変わらない。そもそも自治労が支持母体の民主党に公務員のリストラなんて出来る訳ながない。
そして何より、民主党の政策を実現するには、追加で11兆もの恒久財源が必要になる。
11兆を具体的には誰が、制度化し運用するのか?   公務員でしかない。
(埋蔵金とか言ってるのは、ギャグでしょ)

色々な要素を取り除くと、結局は自民「小さな政府」、民主「大きな政府」という裏が見えてくる。
しかし「大きな政府」はなんとなくマイナスイメージがある。一方、不景気で「小さな政府、官から民へ」というのも、憚れる。
結局、基本政策は曖昧にしたまま、子供手当とかの大衆迎合政策が両党のマニュフェストに並んだだけであった。「大きな政府」は脱官僚どころか、役人天国となる可能性があるし、基本的には財源を確保する為には「増税」が必要となる。
しかし、北欧の国の様に、高税金、高福祉国家を目指すのも勿論一つの形である。
「小さな政府」は、今まで指摘された様に、格差社会、地方切り捨てに繋がっていく。
どちらにせよ、国民自身になにかしらの「痛み」が伴うのだ。しかし、相変わらず生活防衛とか、そんな騙しで真に国民に選択を強いる事をしない。
相変わらずのごまかし政治である。
何故、「大きな政府、高福祉国家を目指します。その変わり増税が必要」とはっきり主張しないのか?
何故、「構造改革を進め国際競争力を高める。その代わり格差が生まれる」とはっきり言わないのか?

思えば、日本という国の政治は戦後、ずっとごまかしの政治であった。
例えば、憲法の拡大解釈→自衛隊→海外派遣。今の自衛隊の存在は、子供が9条を呼んでも違憲と思うだろう。
憲法を変えないなら自衛隊は解散。軍隊が持ちたければ改憲。こんな当り前の選択すらしてこなかった。
非核3原則は有るが、米国の核の傘下に居る事は容認。
多く国民は憲法は変えたく無いが、自衛隊が無くては不安。核は嫌いだが、日本は米国の核の傘下にいるから安全。と、口にせずとも本音で思っているフシがある。
何故、政教分離の原則があるのに、宗教団体を支持母体とする政党が政治活動をしているのか?何故、ギャンブルを禁じているのに、パチンコ屋は堂々と営業しているのか?何故、暴力団が公然と存在するのか?

結局国民は、何も選択してこなかった。(させて貰えなかった)
お金はふって湧いては来ない。平和もタダではない。福祉や年金を充実させ、公共事業も充実させるなら税金を増やすしかない。結局、官僚というのは、選択しない政治=国民の中で、現実的な政策(妥協案)を作りながら、国を動かしてきた。
これこそが、戦後の日本の姿だろう。

小生の父は官僚であった。未だに「政治家は馬鹿で何もしらない」と言って憚らない。今も親戚にキャリア官僚が居るが、兎に角、クソまじめだし良く働く。少なくとも、マスコミが報じる様な悪代官のイメージからは程遠い。

現実問題、犯罪、犯罪まがいの行為を行った政治家達が、官僚を悪だとアピールして、小選挙区で当選してしまうのだから凄いとしかいい様がない。(故人献金で6億近く、西松でグレー献金4億、不動産11億。ついでに辻本、宗男・・・)

綺麗ごとや、上辺だけで、媚を売る様な政治家を排除し、真に主張し、国民に選択を強いる政治へ。
世襲やタレント議員の問題もある。
まずしっかりと国民が政治に関心を持ち勉強する事だ。
その基盤があって、初めて脱官僚、国民主導の政治が成り立つ。

「大きな政府か、小さな政府か」、「追米か、脱米か、」、「改憲か、護憲か」「保守か、リベラルか」・・・

本当に民意として選択されたのであれば、それに従うべきだ。
真に国民が、この国の形を選択をする日(できる日)は何時になったら来るのだろうか。それは現実から逃げずに「選択」する事だ、今回国民は政権は選択したが、具体的な基本政策を選択した。と答えられる人がどれほど居るだろうか?基本政策が良く解らないので、選びようが無いという側面はあるにせよ。

大人の国になろう。子供達の未来の為に。

2009年8月10日月曜日

栗鼠と虎どちらが怖い?

リストラ

以前にも触れた話題で恐縮だが、またこの事に触れたいと思う。
今、私の知っている経営者の方々の最大の関心事はやはりこの事が中心の様だ。
大企業を中心に回復傾向と伝えられるが、だからと言って設備投資が回復しているかというと、どうも実態としてはそうではない、あくまでも、縮小均衡といったイメージを拭えない。
今本当に苦しいのは中堅、中小だろう。
売上半減という話しをざらに聞く、一時期のインパクトとして単月や3ヶ月位が半減ならまだ許容の範囲だろうが、半減がずっと続き、回復の目処が立たないのだから、当然キツイ。

その様な中で小生が話しを聞いた経営者は、「レイオフ」では無く「リストラ」として人員削減を検討している。そして、その対象は50歳を超えた様な、ベテラン社員に向けられている。

何故か?コスト(給料)が高いから?
では無くって、はっきり一言で言ってしまうなら「無能」だからだ。
普通にコストが高くても、それに対してあまりあるリターンが得られるならば、当然ながら人員削減の対象にはならない。

経営者に直接話しを聞くと、
「単に無能なだけならばまだ良いが、周りにまで悪影響を及ぼしている」
「幾ら指導しても言い訳ばかりで変わろうとしない」

高度成長期~バブル期に、長く、サラリーマンを務めていた為、その価値観を変えられない。
こういう人物は事実一杯居る。小生自身も過去この手の人物に随分と苦しめられた経験がある。
小生自身は、この人物を活かす方法を、悩んで悩んで、悩みまくっているのに本人はどこ吹く風で、今のままでも「上手くごましきれる」と考えているのだから本当にタチが悪い。どこで訓練されたのか、ウソといい訳だけは超一流。
それでも渡っていけたのがバブルであり、それはそれで一流の処世術で、ある意味高度なスキルとも言える。

もちろんそれなりに、業績が良ければ何とか活かそうと考えられるのだが、今の状況ではそうも行かない。
それに、中堅、中小企業にとっては今は若くて優秀な社員を採用できる、千載一遇のチャンスなのだ。

経済の合理性で言うならば、この様な社員が居続ける事は甚だ非合理だ。
しかし経営者だからと言って、外資の様にドライに、キャビネットに鍵を掛け、入館証を没収して、明日から来るな。と、出来る訳でもない。人情もあるし、法的な事もある。

被削減対象者側はどうであろう。
長年奉仕して来て、50歳を超えてから、突然首を切られて放りだされるのだから、納得がいく訳が無い。
普通に考えて、再就職は難しいだろう・・・家族はどうなるのか・・・

殆ど経営者も、やはりその事を思う人が多い。
考えみれば、小生もサラリーマン時代、役職が付いて、チームなり部署なりを取り仕切る様になってからは殆ど人の事で悩んでいた。部署の業績とかの「結果」なんて、ある意味なる様にしかならないと割り切れる。
「人事を尽くして天命を待つ」で、駄目だったら、駄目で、全然悩まない。降格なり、退職なりなんらかの責任を取れば良いだけの事。
問題はどうやって「人事を尽くすか」って事だが、戦略とか戦術とかプロセスとか言ったところで、所詮それを実行するのは人。ヒト。人間。

小生が、示した方針なんて、その人だけは、どこ吹く風で、わが道を行く。
しかも、当時、明確な人事権を与えられていた訳では無いのだから、悩みは経営者以上だったかもしれない。
責任はあるが、権限が無いのだから・・・

話しはそれるが、この時は、本社の無理解にホトホト苦労した。
その時は、明確な人事権どころか、評価体系ですら、本社に合わせなくてはならなかった。
拠点の立ち上げと、既に立ち上がりきっている(ついでに腐ってきている)本社ではやるべき事は全く違う。
サービス提供や、営業活動、イベントの企画、と言ったコアな業務から備品の発注といった、本当に細々な業務まで、ルールも無い中で、一つ一つ少ないメンバーがマルチに対応して回さなくていけないのに、本社(東京)の売上達成基準やサービスの提供回数で評価されるんだからメンバーが不憫で仕方が無かった。
しかも商材は、東京でも1年~3年位の期間を取らなければ決まらない様な商材だ。
経済規模は30分の1、地元に信頼されて足場を作って、コツコツと実績を重ねて、なんとか結果が出る。
更に、小生が赴任した時は大きなマイナス要因もあり、本当に愕然とした。

しかも、こういう当り前の事を、上や、本社に「この状況をなんとかしてくれ。」と言っても話しが全く通じないのだ。
小生が何を訴えているのか、理解ができないのだから会話が成立しない。
ベンチャーの場合。なんと無くブームに乗って、成長してきただけだで適当にあいつは良くやっているからとか、成績が良かったから、とか、前職が大企業の部長だったから、とかそんな理由で役員とかになってるので、基本的な企業組織の運営がどうあるべきかが、常識的な範囲ですら解らないのだ。
それと、当り前だが、出来ない人間が、どれだけ駄目かなんて事は本社からは全く見えていのだ。

腐っても仕方が無いので、与えられた環境で最善を尽くすしかない。
一応、小生が自身で定めた任期の間で、マイナス要因も完全に除去したし、事業体としての形も作ったと自負しているので、自分の仕事にはそれなりに満足している。
しかし、やるべき事が解っているのに、環境によって妥協しなければいけないという事ほど辛い事は無い。

少し、愚痴っぽくなってしまった・・・しかし、どんなに悪環境でも、腐らずに、前を向いて仕事をしていれば、自身の成長という、お金や地位では無い最高の報酬を得られる。

その意味では、この時、所属していた会社には本当に感謝している。

さて、話しを戻そう。
以前、「クビ切りという麻薬」と言うのを書いた。
小生はリストラ反対論者なのかというと全く違う。幸か不幸か企業という組織は常に進化し続けなくては存続する事はできない。
会社を新しい成長ステージに入るにあたって、変革を拒み続ける様な社員は、やはりその組織から外れ、違う場所で自分が活かせる仕事を探してもらった方が健全だと思う。
また、その一方で、どこに向かおうとしているのかも社員に示さず、急場しのぎに「首切り」を行う様な行為には激しい違和感を覚える。
その場合、退場するのは、まず経営者からであるべきではなかろうか。

出勤など勤務状況も、問題が無く、まじめに仕事に取り組んでいるのに、経営者の一方的な都合で解雇するのは非人道的な行為である。
とするのは感情論として確かに同意できるのだが、国家が労働の流動性を法律で縛る様な行為には、結局は国の産業を衰退させ、逆に多くの失業者を生む事になるだろう。

現時点で、法律では従業員側が圧倒的に保護されている。問題になった時、労働者の話しは聞くが、経営側の意見が聞かれる事は無い。
(問題になった時理由は聞かれるが・・)
結局、小生の実感としては、法律に触れない様に上手く自主退職に追い込む事が常套手段として用いられてしまい、法律が機能していないのが現状だと思う。
労働組合も、一部の過激なイデオロギーと同質化し、組合の強さが経営に悪影響を与える事が既知となってからは伝統的大企業以外は、殆ど機能していないのが現状だ。

その事は逆に裏を返せば、従業員は常にその能力を評価されるのにも関わらず、経営者はその能力を評価される事は無いという問題が見えてくる。即ち従業員は殆ど経営が適切に行われているか、不適切であるか、関係なく、解雇などのリスクを負っている為に、様々な権利を与えてこれを保護しようと言うのが今の仕組みである。

上場会社であれば、売上や利益など、経営指標で評価できるだろう?と思うのは大間違いである。
無能な経営者でも、殆ど宗教ばりのマインドコントロールで従業員をこき使って成果を上げていたり、今回のリーマンショックが示した様に、何の倫理感も無く、ただただ強欲に利益を求めて結果を出しているのかもしれない。そして何より、経営指標に表れる数字は、経営者の能力では無く、経営者と従業員の両方の能力の総和なのである。
従って、経営者が駄目であれば、株主が経営者のクビを切れるので、経営の健全性が保てると言うのは大いなる誤解であると言わざる負えない。
実際、ヒルズに芸能人を囲ったり、高級外車を何台も会社名義で購入したりするクセに、社員は散々こき使って、使い捨てにする様な頭のおかしい連中は言うに及ばず、素行は品行方正でも、無能な経営者の犠牲となっている社員は多く存在する。

では、どうするか?いわゆる法律的な判断や、IR的な指標のみで、経営者の正当性を判断するのでは無く、まず経営として正当性、妥当性を評価でき、改善指示、場合によっては経営者の退場を求められる仕組みの構築こそ急がれるべきだ。


小生のアイディアとしては、以下二点。

一つは、有名無実化している監査役をしっかり機能させ、さらに株主に対して経営の健全性を担保するに留まらず、従業員かの視点や社会道義的な面を加え多角的に経営の健全性をチェックできる仕組みを構築。

二つ目は、労働組合の存在目的を単に賃金の交渉や、雇用解雇の面から、労使協議を行うと言った経営者vs従業員(正社員)と言った存在理由を大幅に見直し、経営自体への高次元に積極関与。例えば法人企業が営利目的である以上、経済の合理性から見て、組合側から社員、管理職、役員の改善や退場を指示できる仕組みの構築など。

この様な取組によって経営(者)自身の正当性が、まずしっかりと評価される仕組みが出来てこそ、労働の自由化(雇用、解雇に関する規制を大幅に緩和する)に関する議論に移れるのでは無いだろうか?

無論、現状の法律においても、充分に機能していれば、経営の健全性はある程度、評価できる様に思われるが、現実問題としてこれらが有効に機能しているとは言い難い状況である。

しかし、やっぱりというか、なんというか、経済合理性から見た、弱肉強食、弱者切り捨ての労働自由化政策か、労働者を手厚く保護する過保護な国民総ニート政策かの二元論で論じられてしまっている感が強い。
(もちろん、民主主義におていは、人数が多い後者の方が有利で、前者は圧倒的マイノリティ(地方では少々違うと思うが)であって、自民も民主もどちらかというと、如何に上手く後者に歩み寄るかの議論ばかりなので、前者を掲げる政党があっても面白いと思うのだが・・・
まあ。ホワイトカラーエグゼンプションを「残業代未払い法案」とか言って議論もせずに潰す様な我が国では自殺行為に近いケド)

勿論、小生のアイディアも、経営の健全性を評価する人や組織が、秘密警察の様に機能してしまい、結果、企業を衰退させる結果になる危険性があるので、充分な議論が必要な事は当然だ。
しかし、国の経済のグロスが伸びない限り、限られたパイを奪い合う椅子取りゲームは続く。能力では無く、たまたま生まれた年が良いと椅子に座り続けられて、生まれた年が悪いと椅子は全て埋まっていて、ゲームに参加すらできないと言った状況は、健全な競争を阻害していると言わざる負えない。
健全な競争には、健全なルールが必要だ。

いずれにせよ、真に大人の議論をしないと本当にこの国は駄目になると、勝手に一人で危機感を高めている今日この頃・・・

2009年7月24日金曜日

遠き山に日は落ちて

「遠き山に日は落ちて」

何故、こんなブログのタイトルにしたのか?小生自身良く解らない。
「遠き山に日は落ちて」というのはドボルザークの交響曲9番「新世界より」に堀内敬三が歌詞を付けたものである。
一つ思い出されるのは、小学校5年生の時、小生は大阪の豊中の小学校に通っており、林間学校で、兵庫県の鉢伏山(おそらく)に登山をして、その下山途中で仲間達と何故かこの曲を、大声で歌った記憶である。

小生の父親は転勤族で、小学校は3回変わっている。この為もあってか、この時の親友の顔も名前もぼんやりとして、はっきりと思い出す事ができないのに、とにかく最高に楽しかった思い出でのひとコマである。林間学校では多分、キャンプファイヤーや、その他もろもろの行事があって、それぞれに楽しかったのだと思うのだが、何故か、この下山途中に仲間達と「遠き山に日は落ちて」を、何の脈略があってか、歌った事だけがピンポイントで、良く思い出されるのである。

時代は移って、小生が大学生の頃というのは、日本はバブルの弾ける手間の絶頂期で、名実ともに「Japan as No1」だった。
1989年に三菱地所が、アメリカのロックフェラーセンタービルを買収して話題と物議を呼んだ時期である。
ゼミでのテーマも「日米貿易摩擦」を取り上げており、小生は「日本人は働き過ぎだ」その原因は「努力する事に対する価値基準が異常なまでに高いからだ」「死ぬまで働き続ける(過労死)」とか「故障のリスクを無視しても、投げ続ける高校球児なんて異常すぎる。」と言って、先輩からこっぴどく叱られた記憶がある。

右肩上がりの高度成長期の最後の浮かれたお祭りに、幼少期、思春期を過ごし、社会に出るタイミングでバブルが弾け、その後は、なんとなく暗いムードが世の中を支配している。

しかし、実際にこの20年の間にも、世の中は随分と豊かになった。まだまだクーラーは高級品だったし、携帯電話なんてないし、首都圏では路線も随分と増えた。(そういえばいつの間にか扇風機が回っている車両はすっかり無くなった。)お風呂は手動が主流だったし、テレビはブラウン管。パソコンやネットは一部のマニアや研究者のモノで一般には普及していない。
今は、大不況と言われているが、街に出れば活気に溢れている。そうそう犯罪に会う事も無いし、食べ物も美味しいし、相対的には悪くなっているのかも知れないが、決して「羅生門」で描かれている様な状態では無い。

にも関わらず、この拭いきれない不安と暗さはどうであろうか?

日本は来年中にはGDPで中国に抜かれ、世界3位になるとか、一人あたりのGDPでは2008年で23位まで落ちたとか、日本の国債と地方債の発行額の累計は800兆を超えているとか、犯罪発生率が、失業率が、超高齢化社会を迎えるとか、年金や保険が破綻に向かっているとか・・・

手にした豊かさや便利さとは裏腹に、日が遠き山に沈もうとしている現実の中で、その戸惑いを他人に向けて、私は不幸で、誰かが上手い事やっている。自分こそが被害者だと目くじらを立てる浅ましさには同意できない。

世の中は理不尽だし、不合理で非条理だ。そんな中で生きる為に何を選択するのか?生きる為に盗賊となる事は罪なのか?もし「羅生門」に登場する老婆が、捨てられた死体を憐れみ弔っていたなら、主人公の下人はその後どうしであろうか?
善か悪かは概念論でここでは意味がないだろう。
確かに、生きる為に何をするのか?真剣に考えざる負えない状況では、何の為に生きるのか?の問いは貴族の遊びでしか無いだろう。

貴方が兵士として戦争に出る。貴方は大砲を引っ張る敵兵を見つける。敵兵はまだ貴方には気が付いていない。敵兵は如何にも優しそうな好青年だ。貴方がここで銃の引き金を引きこの敵兵を殺さなければ、貴方は当然、貴方の仲間が居る部隊も全滅してしまうかもしれない。
戦争という極限状況で、事の善悪を説く事は何とも薄っぺらい。

物事は常に表裏一体であり、善の概念があるから、悪の概念が成り立つ。
したがって、悪が悪を生むように、もし、世の中の善が欺瞞に満ちていたとしても、人間の作る社会が善として、生きる道を照らしていたならば、人の意思は、また次の意思を生む。如何にそれが概念の中にあるモノで、その事自体に意味は無くてもそれでよい。

小生にも4歳の子供が居る。子供を持ってつくづくと思う。
いくら遺産を残せても、社会が「羅生門」であれば、やはり幸せである筈はない。
少しでも良い社会を築く為に働く事こそが大人の責務だと。
どんなに小さく、結果、何の意味も持たなかったとしても自身はその為に働こう。
そして、子供達が社会に出る時に、同じ様に思ってくれる事で、世の中は循環し、社会に真の持続性がもたらされると信じて。

2009年7月17日金曜日

経営に感情なんて要らない

「経営に感情なんて要らない」

過激なタイトルで、済みません。
リーマンショック以降の経済危機で、MBA的な合理的で、理論に頼った経営が否定される傾向にある。
人を大事にして、長期的な視点に立つ日本的な経営を忘れてしまった為に、日本企業も駄目になってしまった。今こそ日本型経営に戻るべし。
こういう論調が目立つ様になってきた。

MBA的な合理的で理論に頼った経営が、職場の環境をギスギスさせ、鬱病を蔓延させ、結果競争力を失った。
この手の記事や本が指摘している状況は、確かに今の日本企業の多くの現状であるとは思う。しかしこの主因として、米国流経営の否定というのは無理が有りすぎる。恐らくは、

・MBAエリート主義への反発
・合理性の至上主義への反発(様はリストラ(正確にはレイオフ)への反発。
・成果主義的、スタンドプレーへの反発

センセーショナルに物事を伝える為に、日本の企業人の多くが思っているこの様な気持ちを上手く汲むキャチフレーズとして、この様な表現を用いているのであって、本気でそうとは考えていないとは思うが・・・

この様な世情を反映してか、今は社員のモチベーションを向上させる為の取り組み、成果主義の見直しなどがしきりと取組まれている様だ・・・
また、もっと人の感情を大事にしよう。企業理念を共有して、労使が志を皆で共有し一丸で企業運営をしていこう。
こういう言葉がとても目立つ。

なぁ~に、
でも、これらは、格別今か始った事ではなく小生がサラリーマン時代も、この手の研修は何度か受けた事があるし、会社イベントの毎に、「○○精神の唱和」なんって言うのをやらされていた時期があった。リッツカールトンのクレド宜しく、企業理念をパウチッコ?されたものを強制携帯させられたりした事もあった。(携帯していないのがバレると、特別警察に絞られる(笑))

でも、経営者の想いとは裏腹に、小生は「はっきり言って余計なお世話。」「バッカじゃねぇの?」としか思わなかった。
なかんずく、研修の内容がなかなかのモノであったとしても、そこで一旦向上したモチベーションは、現実の職場と、業務に一週間もすれば、うち砕かれた。むしろ砕かれた反動で、以前よりやる気をなくした。

全くの不良社員だ。小生はやっぱりひねくれているのだろうか?(笑)
いや、この点に関しては他の社員も同様であった様だ。

「経営に感情は持ちこむな。必要な事は徹底した理論だけだ。」

いやぁ勿論、経営者にも感情はある。しかし経営に感情を持ち込むとどうなるか?
「あいつも、良い年だし頑張っている見たいだから、そろそろ部長にしてやるか」
「あの取引先には、要求が厳しくて腹が立つ、景気が回復した、らこっちから断ってやる」
まあ、こんな酷いのは例外として、良くあるのがやっぱり、
「うちの社員はレベルが低いうえに、モチベーションも低い」「もっと社員ががんばれば、ウチの商品はもっと売れて良いはずだ。どうすれば社員達が熱くなるのか?」こういう話しだ。

それで「熱い魂で」とか「全社一丸で」とか口走る。

ちなみにこういう会社には大体、社長の愚痴聞き役のお抱えコンサルタントがいて、「整理整頓の徹底」とか「挨拶の徹底」とか、こういう取組をよくやっている。

確かに、整理整頓や挨拶といった基本的な事が出来ていない会社は駄目だと小生も思う。しかしそれを口うるさく言った所で大抵会社は変わらない。
何故なら、社員達がもっとも餓えているのは、具体的な「勝ち方」なのだ。「これをやれば会社が良くなる」という事が腹に落ちて、初めて
社員達は熱く燃え上がる。結果として、挨拶が大きな声でハキハキとできる様になり、整理整頓も行われる。腹に落とすには、具体的で理論的でなければ駄目だ。

全く「勝ち目」が見えていないのに、「やる気」を出せと言われても、余計なお世話でしかない。
「勝ち目」が見えないから、どうやってベストな状態で「逃げる」かを考えているのだから・・・

具体的な「勝ち方」とは何か?それは即ち、徹底した勝つ為の理論でしかない。
兵士がもっと頑張れば戦いに勝てる!なんていう大将には絶対について行きたく無い。

「死兵」という言葉がある。
死を覚悟して、奮起した兵隊達の事である。これは大将が感情的に振る舞う事で、兵がその様な状態になるのでは無く、むしろ己を捨てて、その戦いの意義や、正義を追求する姿勢に共感が生まれ、兵がこの大将の為なら、死んでも構わないと思うのではないのか?

兵士自体の質は全くの無関係なのだ。現に、大坂の陣での後藤基次や真田雪村(信繁)の兵の殆どは、寄せ集めの浪人だったが、兵達はその様な状態にあったという。

では、企業における、正義や志とは何ぞや?高い社会性を持つ事と同時に、やはり売上を上げて利益を上げなくていけない。
理論を破棄して、感情や情緒に振り回される事の危険性は先の大戦で日本人がもっと学んだ事では無いのか?
「お国の為に」「精神力で勝つ」「鬼畜米英」・・・
(中央公論社から出版されている「失敗の本質」という本がお勧めだ。軍事マニアには物足りないと思うが・・・)

即ち、「米国流合理主義経営」が駄目なのでは無く、
根っこにある部分が、「経営者自身の名声、金銭、欲望」の為に理論を構築するのか?「社会正義、意義、志」の為に理論をを構築するかの違いであって、米国人経営者が全員前者で、日本人経営者が全員後者である筈も無い。

また「社会正義、意義、志」だけで、具体的に「ではどうするのか?」が無ければ、これは単なるホラ吹きな夢想家だ。

「理論」や「理屈」を否定するのは簡単だし、
「優しさ」や「怒り」をもっと表現しよう。「共感」を大事にしよう。というのも、なんとなくカッコが良い。
しかし現実は「優しさ」は差別を生み、「怒り」は反感を買い、「共感」は排他となる。

もし本当に燃える様な志を持っているならば、昼夜を問わず、どうすれば「志」を仲間達と達する事が出来るのか方法論を考え続け、試行錯誤するものだ。それに必要なのは「理論」であり、逆に「感情」とは戦い続ける必要がある。

でも現実的には「竹やりでB29を撃墜せよ!」って命令している経営者が一杯いるのが現状かな?・・・クワバラ、クワバラ

2009年6月25日木曜日

三河の魂、千まで。

6月23日に兼ねてから言われていた様に、トヨタ自動車の社長に豊田章男氏が就任した。
これは昨年末経済危機の後の方針では無く、2007年位にはもう次期社長は章男氏であると言われていた。
当時、小生はサラリーマンで名古屋に赴任していた為、この辺の情報はかなり敏感だった。やっぱり東京で仕事している時より遥かに意識する。

その当時、親しかった外資系コンサルファームの名古屋事務所のマネージャとお酒を飲みながらこんな会話をした記憶がある。
コンサルW氏としよう。専門はMA。元々例の米不正会計事件で無くなったファームの出身で、事件後、トヨタ系の商社に勤めたが、耐えきれずにまたコンサルに戻ったというキャリアという方だ。また奥さんはご両親ともに三河出身で、トヨタを辞めるなんてあり得ない。理解不能と言われ随分苦労したそうだ(笑)

~~~
W氏:「あのトヨタですら、創業一族が経営に戻ってくるなんて全くこの地域の経営というのはどこまで遅れているのやら」
「やっぱり竹千代(徳川家康)なのかな?」
小生:「はは、確かに三河武士団なイメージあるね。忠誠心に厚いし、吝嗇(ケチ)だし」

ちなみに、愛知県は三英傑の出身地な訳だが、名古屋では、尾張出身の信長、秀吉より、三河出身の家康の方が人気がある模様。尾張徳川家の影響かもしれないが、不思議なものだ。

小生:「でもね。やっぱり最近思うのはこの地域の経営は、米国流の真似ごとは絶対しちゃいけないと思う」

W氏:「そう言えば○○○○社(三河地方の超伝統食品メーカ)は、カンパニー制を導入したけど全く機能していない見たい」

小生:「そりゃ、そうだ。というかギャグ?」

W氏:「いゃあ、□□□□(別の外資系コンサル)と組んで、かなり本気で取り組んだ見たいなんだけど」

小生:「でも、基本食品しかやってないじゃん。しかも今でもトップは歴代のオーナ社長でしょ?」

W氏:「規模が大きくなってきて意思決定の速さや、組織の自立性を高めたかったんだと思うけど、様はミーハなんですよ」

カンパニー制というのはソニーが始めたので、米流でもなんでもないが、SBU制も含め日本では多いに流行った。しかし、現時点では殆どが見直されている。NECも今年見直すそうだ。

小生「無理、無理。オーナ企業の良い処は、長期視点でじっくり腰を据えた経営ができる事でしょ。だから従業員も滅私奉公すれば、苦しくても最終的にはハッピーになれるんじゃないかと思って働く訳。社内カンパニーは全くの逆。カンパニーの社長は、自身で事業体の最終、最高責任者としてバンバン意思決定して自立して結果を出さなくちゃちゃならない。結果が出なければ責任を取らなくてはいけない。これはカンパニーの従業員も一緒。「滅私奉公」なんて感覚じゃない。しかもオーナがすぐ上にいて、自立した発想で事業を推進していける訳がない。」

W氏:「そう、だからこそ御社は意思決定のスピードが遅く、変化に対応できていない。カンパニー制を導入し・・・と、コンサル屋にころっと騙される。」

小生:「そうやって、オーナ企業と、カンパニー制、両方の良さを見事に打ち消した会社が出来る訳だ。でもそういう意味ではトヨタはぶれてないよね」

W氏:「ぶれてない。竹千代(笑)」

小生:「でも私は竹千代というより、トヨタの場合、天皇制に近いんじゃないかと思う」

W氏:「天皇制!?」

小生:「トヨタはもうオーナ企業じゃないでしょ。組織が何かしらの意思決定をする時に何を判断基準にするのか?短期の利益なのか、長期の成長なのか?特定個人の意思なのか?人と人で意思が異なる場合、何をもってジャッジするのか?」
「これは企業に関わらず、Aという人の意見と、Bという人の意見が割れた時、絶対の正しさなんて無いわけ。ジャッジできるのは
「神様」だけ。他の国は多くの部分で「神様」を「宗教観」に落として「正しさ」の判断をする事が多い。」

「実際は立場、肩書きとか、声の大きさ、多数決とか、そういった要素で「正しさ」が判断されるのだけど、本当にその判断が正しいかなんて事は誰にも解らない。酷い事を言ってしまえば「人を殺すのは良くない」というのも一つの価値観でしかない。

W氏:「確かに、解った気がする」

小生:「独裁でなければ組織においての判断はブレて当然。日本の企業は、米国の様に、短期利益や株主利益という絶対の価値観を持っていない。そういう意味では遥かに多様な価値観を持っていると思う。だからこそよりぶれやすい。これは競争において本質的な弱さを持っていると思う。」

W氏:「天皇が政治の中心にいた事は少ないけど、時の権力者は判断の度にわざわざ勅命を貰う」
「その事で、その判断の正当性を得る。逆に国事を纏める為にはそれが必要だった」

小生:「その事を、自分たち自身が理解している処にトヨタの強さを感じるんだ。それは絶対君主の様に単純なものじゃない。しかしトヨタはでかくなりすぎた。その事に危機感を抱いているからこそ、あえて大政奉還をするんだと思う」

~~~
確か、こんな会話だったと思う。今とは違い、まだトヨタが絶好調の時だ。確かにフォードも創業家の影響力が強いが、フォードの場合はフォード家が現時点でも株式の40%以上を持っている点で大きく異なる。



トヨタには色々な批判がある。QCサークルの労災裁判は有名だ。(QCサークルなどで月/100時間を超える残業で過労死したが、当初QCサークルは業務では無いとの認識から労災認定が下りなかった)もちろんQCサークルが自主的な活動で、業務では無いなどというのは時代錯誤も甚だしいと思う。その一方、過労死された方の父親もトヨタマンで「サークルは業務じゃない。裁判なんて起こすべきではない」と言っていた事は殆ど伝わっていない。息子を失って尚である。
この父親を単純に愚かと表現する気持ちにはなれない。もちろんこの事件に関して「トヨタ」や「労働基準局」の肩を持つ気は更々ないが、この父親の気持ちこそが、「トヨタ」が内面に秘める強さの秘密でもあろう。いや、かつての日本企業の強さの根幹にこの様な「気持ち」があった様に思える。

トヨタは2兆円の利益を出した昨年08年度の役員賞与が28人の取締役の総額が約10億。GMは赤字でも会長だけで15億。
単純比較はできないが、従業員の場合でも、トヨタに比べ、GMは15%~20%高額。危機的な状況でも再建が進まなかった理由として労働組合が強すぎる点が挙げられている。

経営者も従業員もトヨタマンである事の「義務」を第一義に行動し世界一となったトヨタ。経営者も従業員も、自身の得るべき「権利」を第一義に行動し、破綻したGM。

前者も後者も、どちらのままでも居られなくなった事は言うまでもない。

今まではトヨタは正社員の雇用だけは守り通してきた。なんだかんだ言って下請けも守ってきた。
しかし、いよいよ海外では正社員のリストラを予定している様だ。

ちなみに、日産はゴーンさんが来た時点で万単位のリストラを行い、系列の50%を切り捨てた。
その意味で小生はトヨタこそが「超日本型経営」であり、悪く表現するならば「日本型経営の成れの果て」だと思う。




トヨタに関する書籍は大きく二つに分かれる。徹底したトヨタ流の賛美か、トヨタこそが悪の帝国そのものであるという、ステレオタイプ過ぎる物の見方だ。

後者には些か、共産主義を夢見る古典的な左翼の香りがする。搾取する者と、搾取される者という対立軸で表現するには日産では無く、日本一の大企業で、世界一の自動車メーカであるトヨタを、シンボリックな存在として扱うにはうってつけなのであろう。
しかし、小生は逆に、少なくとも「トヨタ王国」こそが、例の将軍様の国よりよほど理想的な共産主義を実現してきた。と表現する方が本質的な気がしている。少なくとも他の大企業に比べると。

「トヨタ流」の賛美もビジネス書として読むと、実はかなり違和感を感じる。トヨタの強さの秘密は、JITに代表されるトヨタ流の生産方式にあり、如何に無駄なく、徹底して効率的に「モノ」を作る体制を取っているか。という趣旨を常にその論拠としているのだが、小生の勝手な知見ではトヨタの強さは本質は、その「販売力」にこそあると思っている。
トヨタはまぎれも無く、世界一車を「売っている」会社なのだ。効率的に品質の良い車を「作る」事が世界一の秘訣だとするならば、消費者としてみた時に他の日本車だってもっと売れて良いはずだ。


トヨタ流の本質は「もの作り」では無く「もの売り」にある。「如何に効率的に車を売るか」がJITにおいても最上流にあるのでは無いのか?だからこそ突然外部要因で「売れなく」なった時に、他よりもダメージを被った。効率良く作る為の仕組みであれば、生産調整をするだけで良いから流血はもっと少なくて済んだ筈だ。


松下(現パナソニック)においても、成長の過程において圧倒的な販売力こそがその原動力だった筈だ。「マネシタ電機」と揶揄された様に、決してイノベーティブな「もの作り企業」では無かった筈だ。

日本経済の強さの秘訣は「もの作り」にあるとして保護政策を取るのは、少々幼稚で馬鹿げていると思うのは小生だけだろうか?

因みに、小生がトヨタに就職していたら、どうだったか?恐らく半年と持たないだろうな・・・
それでもやっぱり資本主義の方が好きだから(強欲じゃない範囲で)
ただ、直接的にはトヨタと関係の無い小生にとっては、トヨタには、やっぱり一杯稼いで貰って税金を一杯納めてくれた方が理想的だ。

新社長期待しております。

2009年6月18日木曜日

ラベルを剥がそう

最近ダイバシティマネジメントという言葉が目に付く様になってきた。
「ダイバシティ」即ち組織に多様性を持たせようという話しだ、対する言葉は単一性、画一性であろう。
表面的には「女性や外国人、障害者などを義務的に採用するのでは無く、もっと積極的に活用していこう」という事で、もう少し深くなると、組織が多様な価値観を認め活かしていこう。という事だ。前回書いた、「天才を見つけて、活かす」とも通じる事で、この事自体は全く賛成であるし、その通りだと思う。

企業組織が多様性を求めるか、画一性を求めるかは確かにマネジメントの問題だ、もの凄く色々な要素をすっとばして言ってしまうと、経済が右肩上がりで、大量生産、大量消費、で製品サイクルも長いという古き良き時代の様な状況であれば、画一的に。
今の様な時代には多様性を求めるマネジメントが必要である。

しかし、また妙なカタカナ言葉が出てきたな。とも感じる。
普通に「多様な価値観を認め組織として活かしていこう」と言えばいいじゃない?
こういうカタカナ言葉が出てくる時は必ず「これでひと山当てよう」と目論んでいる連中がいると感じてしまう。小生はよっぽどひねくれているのであろうか?

一方、社会に目を向けると、相変わらず格差ネタでてんこ盛りである。「元派遣社員の40歳が○○○」とか、こんなニュースが毎日の様に飛んでくる。派遣社員やフリータ、期間従業員。如何に悲惨な状況で、社会が如何に病んでいるかを伝えてくる。

格差を作っているのは一体誰だ?政治家であろうか?経営者であろうか?それとも国民そのものなのか?

職業人生を一生飲食店のアルバイトで過ごしたとしよう。確かに金銭面では楽では無いだろう。贅沢はできない。
しかし、毎日接客に励み、笑顔を絶やさず、真面目にコツコツと働いている。お客さんに喜んで貰おうと工夫している。一体どうして、この人の人生を否定できるのか?

人は死ぬために生きる。死があるから、生がある。死がなければ生きる事を実感できない。
死は誰にでも平等に訪れる。そして死ぬ時に、お金も、地位も、名誉も、決して持っていく事はできない。
即ちその人の人生が豊かなものであったか?貧しいものであったかは、本人自身しか決めれれない。
大会社の社長だったから幸せだった。と周りの人は言うかもしれないが、本人は苦悩の中で死を迎えたかもしれない。

格差社会を声高に訴える連中は、派遣社員やフリータの人生を簡単に否定する。正社員と同じ仕事でも給料は少ない。経済力が無く、不安定で、社会的地位が低いので結婚できない。書類が通らず正社員になる事はできない。クビを切られれば住居も失う。惨めで、差別され、悲惨な生活を送るしかない。大企業の正社員こそがちゃんとした人生を送れると煽り立てる。
これらを訴えるのは、同情だろうか?憐れみだろうか?社会正義からであろうか?
決してあなたの人生は素晴らしいですね。とは言わない。「負け組」だと表現する。大手企業をリストラされアルバイトに(成り下がった)人を(転落人生)だと表現する。

素晴らしい能力を持った人が派遣社員として自立しながらステップアップしてキャリアを積んでいく。本来であれば、その様に鍛えられた人材は企業としても歓迎される筈だ。しかし「負け組」「二度と這いあがれない」と世の中から言われれば、有能な人材がその道を選択する事はしないだろう。
有能であっても「派遣社員のレッテル」を張られれば「負け組」と表現されるのであるから当然だ。
新卒、正社員として固定的な仕事を低い次元で、上司に気を使いながら、くだらないと思いながらも何年も我慢して正社員にしがみつく。結果、国全体の生産性は下がる。

小生は良くある二元論「社会責任論」「自己責任論」を展開するつもりは全く無い。と、いうより馬鹿げている。社会と個人の双方が相応に努力すべき問題で、なおかつ社会というのは個人の集合体なのだから。

しかし、格差社会を声高に叫ぶ連中は、その対象者に「絶望」しか与えない。「こんな国だから・・・こんな社会だから・・・どうしようもない」と。

「希望」を与える事はしない。いや与えてはいけないのかもしれない。この手のマスコミや評論家やらは自身が「勝ち組」でないといけないからだ。「負け組」というレッテルを張るには、「勝ち組」のレッテルも必要だ。自身が高給で、社会的地位が高く、安定していおり「勝ち組」であるからこそ、それを持たざる者に「負け組」レッテルを張り「絶望」を与える事ができる。

あるマスコミから派遣切りされた人が、マスコミの正社員にこう言う。
-「貴方は、私の様な、下賤で猥雑で低次元な仕事では無く、社会的な意義も高い仕事に就かれて素晴らしいですね。」

大手マスコミ正社員君はなんて答えるだろうか?
-「仕方がないですよね。こういご時世ですし、辛いと思いますが「良い仕事」につける様に頑張って下さい。」

違うのではないか?本来はこう答えるべきだ。
-「それは私こそが貴方に言う言葉です。」

人生も、生活も、職業も、人が人に対して、優劣を付ける事ほど傲慢な事はない。

そういえば、最近、石原都知事が盲目のピアニストの辻井さんに「もし目が見えたら何が見たいですか?」と記者が質問していた事に憤慨していた。人権、差別撤廃を殊更声高に叫ぶ、朝日新聞の記者がだ・・・そもそも記事のタイトル「盲目の」とか付ける事自体に非常に違和感を感じる。そこには「健常者より劣る障害者が、素晴らしい業績を残すなんて凄い」これは、記事として注目される=商売になる。という本音が煤けて見える。

ダイバシティマネジメントなんてカッコいい言葉使って商売している連中。
まさかとは思うけど「女性や外国人は積極的に採用しているけど元派遣社員は書類選考すら通らない」なんて事はしてないよね。
もちろん純粋に能力として評価できなくて採用しないのは健全だが。

少なくとも小生は「格差を無くそう」とか「ダイバシティマネジメント」とか「友愛?」とか、わざわざ改まって表現して訴える人を信用したくない。

本当の多様性は、真の自由から生まれる。
それは自身の心から、他人から勝手に張られたラベル(レッテル)を剥がし、自身の正義、誇り、使命の為に生きようと考える事から始まる。自身の価値観が、自分自身によって評価できれば、他人にから張られたラベルは気にならなくなる。
それは、同時に他人にラベルを張り付けて評価する事の愚かしさを知る。他人の価値観が自分の価値観と異なる事を自然に受け入れられる様になる。

さあ、前を向いて歩いていこう。絶望も希望も自分の中から生まれる。きっとね。

2009年6月15日月曜日

何故、キャンペーンが上手くいかないのか②

前回の続きを書く前に、前回の補足をしておきたい。
セブンアイ会長の鈴木敏文氏の「周りが反対する事をやると成功する」と、言うのは実に罪作りな言葉だと思う。
何故なら「周りが反対する事」は実際には殆ど失敗するという現実があるからだ。

一番多いのは、「空想、妄想企画」というものだ。一発当てて成功したオーナ経営者や、妙な社内政治で権力を握ってしまった人物などが企画したものに多い。

この手の人物が企画した「空想、妄想企画」は殆ど個人的な願望に近い事が多く論ずるに値しない。しかし、実際にはそういう企画?が企業の外を見ても世の中にはあちらこちらにある。例えば我が国は昔、「米国と戦争しても勝てる」と企画して、大惨事を招いた。「北朝鮮は地上の楽園」キャンペーンなんていうのもマスコミが企画した事もあった。
いずれもトンデモ企画だが、実際に止める事はできなかった。
近年でも「ゴニョゴニョ・・・」(いらない人に睨まれない様に隠しておきます)

企業の中で権力者から「空想、妄想企画」が提示された時、担当者が取れる行動は残念ながら
・「やったふりをして忘れるのを待つ」
・「傷口が広がらない様に少しだけやって、失敗の報告をする」
・「諦めるまで付き合う」
位しか選択肢が無い。自己顕示欲の強い権力者を正面から否定する時は、転職先を見つけてからにした方が良い。間違えても「本気なら伝わる筈だ」とか考えない事だ。

今回、失敗企画(キャンペーン、戦略)が生まれるメカニズムを考察する前提は、あくまでも有能で勤勉なマーケッターが何故、失敗企画を生み出してしまうのかに着目したい。

前回、企画を立案する際に重要なのは「顧客起点」で「顧客心理」を読む事だと書き、同時に酷く難しいとも書いた。
その理由はの

第一に、そもそも、その人間自身に優れた洞察力が必要となる。
第二に、「顧客起点」で「顧客心理」から「優れた洞察力」を持って企画したものは、社内で理解されない。
第三に、投資対効果を示せない。

上記、三点が主たる要因である。

第一の要因は、完全に個人の能力の問題である。鈴木敏文氏の本に出てくる様な事例を、もし小生が「顧客起点」で「顧客心理」を考え企画したとして、同じ様な企画を考え出す事が出来たであろうか?果たして、難しい。
こればかりは、ロジックを幾ら学んだ処で全く難しい。戦略を立てる際は良くコンサルファームの人間が言う様に「ファクト」(事実)とロジック(理論)が重要である。しかし残念ながら、「ファクト」(いや、あえて「事実」と書こう。)
「事実」なんて言うモノは、世の中で、起きている事全てが「事実」であって、それ自体は戦略立案にあたっては対象とならない。例えば顧客起点で「事実」を見た時に、「人間は大人になると、オナラを「すかしっぺ」で出来る様になる」と、ある研究でこんな「事実」があったとしよう。あなたのビジネスの戦略立案に役立つであろうか??
いや、今日、私の頭に寝ぐせが付いているのも「事実」だし、貴方が電車のドアに挟まれたのも「事実」だ。

そういえば「ITPRO」という日経のIT系ネットメディアで「マスゴミ」論が盛り上がった事がある。読者のコメントの多くが、マスコミは自分の主観など加えず、客観的な「事実」のみを伝えれば良いというものであったが、例えば麻生総理が「漢字を良く読み間違える」というのは「事実」であろう。「マスコミ」が「マスメディア」であり、スポンサーの受けが良く視聴者、読者の感心、興味を引く為に「事実」を伝える存在である。と割り切ればそうは腹も立たない。
しかしマスコミがおかしな事に「正義」とか「ジャーナリズム」なんて言葉を使うから、おかしな事になる。

麻生総理の漢字誤読という「事実」よりも、世の中に伝えなければいけない「真実」は一杯ある筈だ。「事実」にフィルターを掛ける事が「真実」では無い。あくまで個人を排して「事実」を積み上げて初めて「真実」にたどり着く。それを伝える事だ。政治や経済事件の度に起こる不自然な自殺、チベット、核、パチンコ、etc・・・伝える側のイデオロギーはどうでも良い。ネット上に転がる「噂や野次馬報道」では無く、プロとして、とことんまで「事実」を洗って「真実」に辿りつく姿勢。
そういう「骨太のジャーナリズム」と「マスメディア」は切り離して考えるべきだ。

ちなみに、岐阜県の裏金をデッチ上げた番組は「真相報道」の冠がついている(笑)、その一方で「骨太のジャーナリズム」は、必ずしも社会に許容されないというというのも、また「事実」だ。

話が大きく逸脱してしまったが、この事は企業内で起こる第二要因にも非常に近い。経営は突き詰めれば「ソーシャル・サイエンス」だと思う。

話を第一要因に戻そう、「ファクト」をどれだけ掴んでも、知っていても、「ロジック」を如何に学習しようと、最初にひらめく「仮説設定」がトンチカンな物だと全く意味が無いのだ。最初に立てた仮説から関連する「ファクト」を「ロジック」に掛け、頭の中で論理構築していく。当然論理構築していけば、顧客価値はあるか?自社のリソースは?同種の価値を提供する競合は?(3C)(笑)
価格は?製品サービスは?流通は?宣伝は?(4P)(笑)
といった様にフレームなんて重視しなくても、普通に検討材料になる。フレームはあくまでも頭の中の整理の為に使うのだが、最近やたら多いのが、フレームを知っている事が自体が、戦略家やコンサルタントだと勘違いしている御仁だ。
では、どうすれば、正しい仮説設定ができるのか?残念ながらこれは「洞察力」と「経験」から導きだされる一種の「勘」の様なもので、ある程度の処までは訓練を重ねれば磨かれるかもしれないが、本質的には個人の資質というより他にない。

第二要因である、
「顧客起点」で「顧客心理」から優れた洞察力を持って企画したものは、社内で理解されない。
のは、ありきたりな言葉で表すのなら「ニーズ」では無く「ウォンツ」レベルで洞察されている。「ウォンツ」即ち「見えざる欲求」は表出化していないからこそ「ウォンツ」なのである。「ウォークマン」の話しは有名だし知っている方も多いだろう。「ウォンツ」型製品企画の事例として有名だが、当然この様な製品は当初全くと言って理解されない。
必ず「そんなもの売れっこない」という反応を得る。
ちなみに「ウォンツ」は「シーズ」と近い。技術シーズは単たる技術追及の結果では無く、どこかで「ウォンツ」を捉えている場合が多い。「ニーズ」を良く知っている人間ほど、シーズを否定してしまう。

製品に限らず、戦略、キャンペーンといった企画を検討する際に、表出化していない「見えざる欲求」に対応したものは「ニーズ」を知るものに簡単に否定されてしまう。

鈴木敏文氏は純然たる巨大グループの会長職である。ウォークマンの企画を思いついたのも故盛田氏だ。一介のサラリーマンにしか過ぎないマーケティング担当者が、いつも「そんなのダメに決まっている」と言われる企画ばかりを提案していたらどうなるか?通常、この様な人物のサラリーマンとしての栄達はかなり難しい。
これが外部のコンサルタントであればどうか?クライアントからその様な反応をされれば契約を切られてしまう。内部の人間以上に本質的な提案が難しい事を、逆にクライアント自身が認識しておいた方が良い。

鈴木氏の場合は、サラリーマンからの出世であるが、市場への洞察力も長け、且つ社内を動かす政治力も発揮できる様な人材は、天賦の才に恵まれた、一部の人間だとある程度認識しておいた方が良い。

第三要因に関しては、第二要因とも重なるが「ウォンツ」レベルでの企画は、当然「見えざる欲求」である為、投資対効果を明確にできない。「当たるも八卦、当たらぬも・・・」の世界。この問題は非常に重要で且つ、解決策が見えない。大きなリスクを求めている。統計データや、モニタリング調査、テストマーケをある程度の精度で行う事によってリスクは低減できる。
しかし、リスクを恐れ、如何に費用対効果が確実なものであるか精査すればする程、時間と労力を失う。更に一番問題が多いのが、費用対効果を重視するあまり、企画そのものが、常識的にリータンが求められる範囲(もしくは開発陣やデザイン陣)に妥協を重ね、結果無意味なものになってしまうケースも多い。


以上、三点の要因を考えた時、小生はある種の絶望を覚える。天賦の才に恵まれているとは思えないからだ。
しかし、企業組織は多くの従業員を抱える。天才的な企画力を持ち、且つ社内政治に長けた人材はそうそういないだろう。しかし、逆にどちらかを持った人間であれば、比較的見つけ出す事ができるかもしれない。
もちろん、前者は無いが、後者(社内政治)だけに長けている人物には気をつけなければならない。

組織は必ず、前者を潰す方向に作用する。組織というのは、自らを「常識」に縛り付け、それを逸脱しようとする物を排除する。
何故なら、「非常識人」は「常識人」にとって自分達の居心地の良いコミュニティの破壊者だからだ。ヤクザやギャング、軍隊でもそうだ。

この点に気づき「組織」を運営できる企業は本当に少ない。今のソニーを見れば良く分かるだろう。

「天才を育てようよするな、見つけ出し活かす様にせよ」

今回はこんなところで止めておこう。

2009年5月13日水曜日

何故、キャンペーンが上手くいかないか①

前回の続編として「何故、キャンペーンが上手くいかないか」を書いてみたい。
前回の「アウトバウンドうざい」を読まれ「何を、誰に、どうやって」で考えるから駄目。と書いた訳だが、耳慣れた方であれば、「何だ4Pでは無くって4Cで考えなさい」という話か?と思われた方も居るだろう。

4Pというのはご存じの通り
「製品(Product)、価格(Price)、流通(Place)、プロモーション(Promotion)」の略で、
マーケティングミクスを構築する際の有名なフレーム。ただし、4Pだと顧客視点では無いという事で言われ始めたのが4Cで、
「顧客価値(Customer Value)、顧客コスト(Customer Cost)、コミュニケーション(Communication)、利便性(Convenience)」で考えなさいというもの。

正直、小生、これ4Pも4Cも同じ事を言っているだけとしか思えないので、ここで、くどくど説明する気は無い。お好きな方をどうぞ!って感じ。ついでに4P、4C自体どうでも良い(こんな事言うと怒られそうだが)

また「アウトバウンドうさい」見たいな話しをすると、なんだ「CS(顧客満足)の話し」ね!とか短絡的に考える方も居るが、この際「CS」も、どうでも良い(これも怒られそうだ)

小生なりの結論を言おう、重要なのは「顧客起点」で「顧客心理」を考える事。
なんだそんな当たり前の事か?と思われるかもしれないが、では、何故大手カード会社があの様な最悪のキャンペーンを張ってしまうのか?

少なくとも、コンシューマ(一般消費者)相手のビジネスをしている大手企業のマーケティング担当者は、相当な勉強をしているし、各種マーケティングキャンペーンを成功させて来た自負もある。膨大なデータもある。
コンシューマ相手のマーケティングに関して、小生が論戦を挑んでも、あっと言う間に論破されてしまうだろう。
にも関わらず、何故「最悪なキャンペーン」を手間暇掛けて行ってしまうのか?

「顧客起点」「顧客心理」という二語で、勘の良い方なら、ある人物を想像しただろう。そうセブンアイの鈴木敏文氏だ。
最近、イトーヨーカドーのキャンペーンで「下取りセール」と言うのをやっていたのをご存じの方も多いだろう。同氏へのインタビュー記事やTVでも紹介されている。小生は同氏の公演でこのセールの話しを聞いた。

要約すると、
①近年は顧客の価格に対するロイヤリティーが失われている。定価に対しての信頼感が無い。
→オープン価格や、ディスカント、セールの日常化によって定価の3割引きと謳われても、顧客自身が○割引に慣れ過ぎて、定価なんてあって無い様なものでしょ?どこでも3割引き、探せば4話引きとかで売られているんでしょ?と感じて来ている為、「普通に○割引セール」とキャンペーンを張っても、殆ど効果が無い。例え実際には小売として相当の値下げ努力をしていても。

②定価で売っても、キャシュバックした方が信頼される。
→具体的に○円戻ってきます。と、した方がロイヤリティが得られる。しかし単にキャッシュバックしますでは訴求力に欠ける。
今はモノ余りの時代で、家の中には使ってないけど、捨てられないモノが一杯ある。そういうモノを引き取って、目に見える「お金」という形で換金する事で、心理的な壁が無くなる。結局は同じ値下げでもよっぽど効果的が得られる。

実際にこのキャンペーンは相当な成果を上げたそうだ。事実小生の嫁も、まんまとこのキャンペーンに引っかかっていた。

また、例の如く、このキャンペーンも社内からは、2割引き、3割引きで売っても売れないのに、そんな事やっても効果が無いと言われたそうだ。同氏の著書を読んだ事のある方なら周知とは思うが、ここでも「周りが反対する事をやると成功する」「売り手発想では無く顧客心理から考える」という例の法則を、また成功させた訳だ。「売り手発想だと、直ぐに5割引きとかそう言う方個性に走ってしまう」との事

無論、この話しを聞いてキャンペーンの種明かしをされても「あっ!確かに、なるほど!」との想いは持っても騙されたとは思わない。

~~以下は完全な小生の仮説として書く。(本当に大手カード会社の内情がそうであると告発するものではない)

一方カード会社の最悪なキャンペーンはどうだろうか?

①利用状況が急に上がった会員は、キャシングに対するニーズが高い。
→利用状況のデータから最近利用が急に増えてきた会員ならば、現金に困っている事が多くキャシングの利用をする可能性が高い。事実そういうデータも取れている。

②キャシングは銀行、消費者金融、他カード会社など、様々なコンペチターが居る。自社のカードのキャッシングを利用してもらう為の後押しが必要。
→金利の引き下げや、ポイントを倍して、一部の方だけの特別キャンペーンとして認知してもらう。

この様なキャンペーンも、「顧客心理」から考えられたものでは無いのか?「下取りキャンペーン」とどう違うのか?




・・・・・そう、発想の起点が「顧客か、売り手か」の違いである!
「下取り」と「最悪」の①、②を良く読み比べて欲しい。



マーケッターが陥る最大の課題は正にここにある。

「売り手起点で4P(4C)を構築しても全く意味がない」
「売り手起点で顧客心理を考えても全く意味が無い」

売り手起点で発想されたキャンペーンは、この後、では、具体的にどうやってキャンペーンを張ろうと検討される。「最悪キャンペーン」の例の場合、プロモーションは利用明細や、Webの会員個人サイトでは、明らかに訴求力が弱い。では直接電話しよう。社員を使うとコストが高いので「業者」を使おう。平日だと電話に出ない可能性が高いので、日曜日の昼にしよう。
こうやって「最悪キャンペーン」が実施されてしまう訳だ。「顧客起点で顧客心理」をしっかり検討していたら、日曜日の昼間に借金の勧誘電話をする事の愚かしさに真っ先に気づく筈だ。

鈴木敏文氏の「顧客起点」「顧客心理」というのは、言葉にするのは簡単だが、実践するのは酷く難しい。「顧客起点」で「顧客心理」を読んだつもりでも、実際には「売り手」起点になってしまっている事が実に多いのだ。

また、同氏の「周りが反対する事をやると成功する」と、
小生が書いた。
消費者自身が種明かしされた時に「あっ!確かに、なるほど!」と思える。
の二点には、実に重要なインサイトが隠れている。

「最悪キャンペーン」にこの二点をあてはめて欲しい。

「データから急に利用が増えた会員は、キャシングに対するニーズが高い様です。今は不景気でカードの利用自体の増加は見込めません。該当会員に対して、キャンペーンを打ちたい」と社内で提案した場合、反対する人がどれほど居るだろうか?

また、この様な社内の検討があってこの様なキャンペーンをやってみました。と種明かしされた消費者が「あっ!確かに、なるほど!」と思うだろうか?

これは「最悪キャンペーン」に限った事では無い。殆どのキャンペーンが「3割引きで駄目なら、5割引で頑張ろう」になってしまうのだ。

消費者として、そのキャンペーンを種明かしされた際「あっ!確かに、なるほど!」と思えるかどうか?をマーケティングキャンペーンを検討する際に重要なバロメータとして認知してみては如何か。

次回、失敗戦略や失敗キャンペーンが企画されてしまうメカニズムに関して記載したい。

2009年5月11日月曜日

アウトバウンドうざい

日曜日のお昼。家族団欒の時を過ごしているとき、一本の電話を嫁が受けた。

嫁はカード会社からTELとの事だったので、何の疑いもなく私に電話を回したわけだが・・・カード会社からの電話など掛って来た記憶が無いので、少し「ドキッ」とした。カードを落とした?とか不正利用?とか残高不足で引き落としが間に合わなかった?とか。

内容は「今キャッシングをご利用頂くとポイントが倍になります。金利も安いです」という宣伝を一方的に3分程。「キャッシング」って様は無担保ローンだからサラ金と一緒。利用しようと思った事は一度も無い。借金を勧める電話を家族団欒の真昼間に受けていい気分になる訳もない。小生あんまり怒ったりするのは柄では無いので聞くだけ聞いて電話を切ったのだが・・・

実は、このカード会社のカードは5年ほど前、あるショッピングモールでキャンペーンをやっている時に作ったものだ。カードを作ると全品2割引きで年会費無料という事で定価が50万程する時計が、セールで30万になっていてカードを作ると更に6万円引き!なので問答無用で入会したが、メインのカードは別のカード会社の物を使っていたので、それっきり全く使っていなかった。

しかし、1年程前そのメインのカードにある問合せをしたところあまりに腹の立つ対応をされたので、もうここのカードを使うのは辞めようと思い(この時も優しい小生はこの担当者には何も言わず)それからはショッピングモールで作ったカードをメインカードに切り替えた。

ここからは単に推測でしかないが、このTELを掛けてきたカード会社は会員数は業界トップクラスの会社なので、会員数は数千万になる。全員にこの様なアウトバウンドコールをするのは現実的では無い。だとすると、何かしらのデータから抽出してターゲットを決めて掛けてきたに違いない。急に利用が増えた会員をデータからリストアップしてTELして来たのではないだろうか?
マスでは無く、データからターゲットを決めて、キャンペーンを張るのはもはや常識的すぎる手段だ。
確かにこのキャンペーンで、キャッシングの実績が何パーセントか上がるかもしれない。不景気なこのご時世に急にカードの利用額が上がっている会員なら、効果度は高いだろう。そうなればターゲッティングの冥だと親会社の銀行もホクホクだろう。

また、この様なアウトバウンドコールは自社の社員では無く、ほぼ間違い無くどこかのアウトソーサに委託する。
試しにWebで「営業 BPO」(BPOはビジネスプロセスアウトソーシングの略)で検索してみれば、その様な業者が山の様にある事に気づくだろう。
TELアポやアウトバウンドコールは外部に委託し、そこで引っかかった良質なリード(見込み客)は自社の営業マンが対応する。とか。形態は色々。確かに労働単価の高い自社の正社員営業マンがTEL掛けまくるというのは非効率だ。最近は営業アウトーシングとして、クローズ(受注)までを成果報酬などで請負う企業も多くなった。

このカード会社は、「業者を使い効率的に実績をあげられる有効な手段」を実施したと満足かもしれない。

なるほど「売る側」の理屈としては「効率的」かもしれない。

しかし、常識的に日曜日の真昼間に「キャンペーンやってますので借金しませんか?」と電話を掛けてこられて、いい気分になる顧客がどれほど居るだろうか?少なくとも小生はこのカードも解約かメインカードからの降格の対象になっている。

業者はノルマをこなすだけで、与えられたリストから、何人に電話を掛けて、何人と繋がって、何人が最後まで聞いた。というデータを、依頼主に返して報酬を得るだけだ。
もちろんアウトーソースの形態や業者の質も様々だし、一概に否定する訳ではないが、本当に顧客と自社の商品やサービスに愛着を持って「業者」が接するだろうか?大切な「顧客接点」を業者にアウトソースする事の意味をよくよく再考した方が良い。

もちろん「業者」かどうかは小生が勝手に言っているだけで、本当のところは解らない。
しかし、どちらにせよ、彼ら(このカード会社)は、少なくとも小生の事など全くどうでも良い顧客だという事は良く伝わった。

「業者」と共に、コンサルとかマーケッターが口にする「ターゲティング」や「セグメンテーション」には多くの「嘘」がある。自社起点で「何を?誰に?どうやって売るか?」のロジックになってしまっているケースがあるからだ。コンサルやマーケッタ自体も「業者化」している証拠だろう。
それって基本じゃないの?と思った方は要注意!これのマズさはまた機会があれば説明したい。

このカード会社も他に漏れず、会社概要には「お客様の多様なニーズに的確お答えして・・・」なんて書いてある訳だが、
小生のニーズは「借金」か!!!

2009年4月24日金曜日

クビ切りという麻薬

連日取り上げられる、派遣切り、内定取り消し、大企業のリストラのニュース。マスコミが取り上げるのは本当にごく一部の事例でしかない。
新聞に取り上げられる様な大企業でないところでは、労基?なにそれ?といった感覚で社員のクビを切っている会社が多くあるのが実態だ。大企業は世間の目があるので、退職金を積み増したり、再就職先を斡旋したりするのでまだマシな方だ。しかし、こういう企業ではそんな事は全くのお構いなしだ。まさにリストラなんていうカッコの良い言葉では無く「クビ切り」だ。

小生は、もっともっと労働は自由化すべきで今の労働基準法が良いとはちっとも思わない。(もちろん法令順守は本来絶対条件であるべきで法令順守を否定するものではない。)
経営者は不景気で売上が減り、雇用を守っていれば会社自体が潰れてしまう。そうなれば全従業員が職を失う。多少の犠牲は仕方がない。「今回は100年に一度の不況、責められる云われはない。」と考えるのは確かに一理ある。

しかし、具体的に小生の知っている企業でも「本当にそれで危機を脱せれるの?」と思うやり方でクビ切りをやっている企業が多く存在する。例えば100人規模の会社の経営者が「もっとも無能」と思う10人のクビを切る。年間で1億円近い人件費が削減され、赤字から利益が出る様になったとしよう。経営者は一先ず利益体質にしたのだから景気が回復したらまた徐々に人を増やせば良いと考える。
しかし、如何に経営者が「無能」と思っていたとしても10人が生み出していた価値提供能力は少なからず減る。この状態で景気が更に悪化したらどうなるだろうか?
この場合この経営者は「次に無能な10人」をリストアップしてクビを切るだろう。。。。

経営者と言うものは本来500万円で人を雇い入れた場合。500万の原価から如何に付加価値を生み出すか考えなければ行けない。500万円の社員がどう動けば、数百万、数千万、数億の利益が生み出されるかを常に考えマネジメントしなくてはならない。
(ニンテンドーは社員一人あたり1億6千万円の利益だそうだ!)
マネジメントがしっかりと出来ていない企業。なんと無く忙しくて人が足りない。好景気で伸びそうだから人を取っておこう。レベルで採用をしていた企業程、クビ切りに走る。
こういう企業の経営者は不景気を言い訳に10人のクビを切って1億のコスト削減を考えるが、不景気を前提に、その10人を活かして1億の利益を出す事は考えられないのだ。

新卒、中途を問わず、社員を増やした場合、多大なコストを発生させる。採用コスト、教育コスト、最初の半年~1年は戦力にはならなず給与だけは支払うという状態だ。もちろん先輩社員達のOJTの時間もコストだ。
これらのコストに対して本来は相応なリターンを得なければいけない訳だが、「無能な10人」が居るという事は、その経営者は、ただただ、そのコストを垂れ流してきた事の証明を自らしてしまっているのだ。

これは、従業員側から見れば、有能な社員であればある程、その「クビ切り経営者」が如何に無能かを改めて知るという事なのだ。
小生の知る限りこの現象は事実多くの企業で発生している。もっとも無能な10人のクビを切った会社が、もっとも優秀な10人も失う。という現象だ。

繰り返そう
「無能な社員が会社に居るという事は、経営者が如何に無能かの証明である」ニンテンドーの社員は超絶に有能で、その会社の社員は超絶に無能。
↑そんな訳ね~だろ普通に!

残された80人は、他に行き場所の無い人畜無害のそこそこ社員な訳だが、その社員達の士気は殆どゼロ。当然売上はさらに減少し、顧客満足も下がる。無能な経営者は一度味を占めた、クビ切りをまた行って利益を出す・・・・そして廃人、いや、廃企業となるだ。

小生が少し覗いて見ると、まだまだ明日への「打ち手」が山の様にあるケースが殆ど。

こういう企業の経営者で「批判は承知の上で、私が悪者になり矢面に立ち勇気ある決断で他の人の雇用を守った」「泣いて馬謖を斬る」などと悲劇のヒーロー、ヒロイン気分で悦に入っている人すらいる。
本当に「馬鹿丸出し」状態。多少アドバイスした所で、「何を青臭い事言いやがる。お前に俺の気持ちが解るかっ!」となるのがおち(笑)。小生は心の中で「あなたの方がよっぽど青臭い」なんだが・・・その事は心の中と、このブログのみに留めておこう。

経営者の今日の仕事は将来への投資を行う事だ!!
一度だけ、だと「クビ切り」という麻薬に手を染め、現実逃避の利益を出しても、その先にあるのは転落だけで、決して元には戻れない事を覚悟した方が良い。

2009年4月13日月曜日

プリウスとレクサス

ホンダのインサイトが189万円ならトヨタの新型プリウスは205万円。
かつて日産ブルーバードとトヨタコロナで過剰な販売合戦が行われ「BC戦争」と称された事があるが、今度はハイブリッドカーを主力とした「PI戦争」と言うべきか。

今回、新型プリウスは当初、現行型より値上がりするとみられており、一番安いモデルでも250万円位のプライスタグがつけられるとの大方の予想であった。しかしインサイトが189万円で、予想を上回る受注を得た結果205万円での販売を踏み切らせたのは間違いない。
ハイブリットの仕組みの違いや、ベースとなるプラットフォームの違い、等々を考えるとあからさまなインサイト潰しであるとの声が上がるのも無理は無い。しかし何故そこまでするのか?をもっと踏み込んで考えると直接「インサイト」を潰す。よりももっと広義で「ハイブリッドカー=トヨタ」というブランドを守りたいのでは無いかという気がしてならない。

トヨタが初代プリウスを販売したのが1997年である。価格は215万。世界初の量産ハイブリッドカーであり、この価格で出すのは戦略的な価格であって「売れば、売るほど赤字」では無いかと言われた。初代プリウスのプラットフォームはプレミオ/アリオンという中型車と共有していると言われ、そのプラットフォームに完全に独自のハイブリット技術を盛り込んだのだから、初代においてもバーゲンプライスだったのは言うまでもない。
ホンダはその2年後に初代インサイトを発売するが、これは2名乗車であり、いろいろな面で「買わないでくれ」オーラに満ちていた。一先ず燃費世界一でトヨタに負けていないというメッセージを出す事が重要で、ホンダにしてもインサイトは売れば売れるほど赤字だったのだろう。
技術的にもトヨタのハイブリットはモータのみで独立して駆動するのに対して、ホンダのハイブリッドはあくまでモータはエンジンの補助動力という扱いである。(それは今でも変わらない)

しかしトヨタは215万のプリウスを本気で販売した。いち早くブランドを確立。部品コストの量産効果を得たかったからで、その戦略は見事に成功した。今のところハイブリッドカーと言えばプリウスであり、エコカーで最先端を行っているのはトヨタというイメージを市場に作る事に成功した。この為、技術は進化し、コストは下がり、ブランド力は向上するという、先行者として、教科書どおりの戦略で成功を収めた。

今回の新型プリウスは205万でもちゃんと利益が出る様になっていると踏んでいる。流石に昨今の経済情勢と「売れるプリウス」で、売れば、売るほど赤字という訳には行くまい。で、あるならばトヨタが利益が出るギリギリのラインまで価格を下げてもインサイトを潰し、プリウスブランドを守るのは当然である。
一方のホンダは初代インサイトの後ハイブリッドを止めた訳では無く、現在でも現行インサイトの前からシビックハイブリッドを販売している。現行のシビックハイブリッドは229万からである。シビックより格下のフィットがベースとなっているインサイトの価格が189万で安いと言われているのだから、決して高い価格では無い。しかしこのシビックハイブリットは恐ろしく売れていない。

決論から言ってしまえば、新型インサイトはプリウスの様な形をしているから売れた。ホンダにしてみれば、初代インサイトの形を引き継いでいる。とか、空力を追求した結果。とか「言い訳」は一杯できるが、実際のところ初代インサイトの形なんて相当なマニアじゃなきゃ覚えていないし、ハイブリッドカーで無い車種で素晴らしい空力を実現している車も多く存在している。

消費者の視点から見れば、シビックの形をしたハイブリッドカーはハイブリッドカーとして認知させず、プリウスの形をしたインサイトこそがハイブリッドカーなのである。ホンダはトヨタの作った「エコカー=ハイブリッドカー=プリウス」に上手く乗った形であって、言い代えればインサイトは「ホンダの作った安いプリウス」なのである。

そう考えると「PI戦争」もう勝負はついてしまったかも知れない。


だからという訳では無いが、もう1点の論点を加えたい。それは「レクサス」だ。すでに一定の成功を収めた北米でのレクサスでは無く、あくまでも国内における「レクサス」だ。
2003年から開始した、国内でのレクサスの販売状況は惨憺たる現状だ。2008年上期で1万5000台で計画の約半分という状態だから、2008年下期、2009年上期は壊滅的状況だろう。
この不振に対してもいろいろな事が言われている。「訪問販売をしない営業方針に問題がある」「性能、品質面でまだまだ独高級車などに及ばない」etc・・小生いまいちしっくりこない。

そもそもトヨタはなぜ国内でレクサスの販売を始めたのか?
理由は簡単である。少子高齢化、人口減の日本においては薄利多売では無く、一台あたりの利益率を高める必要があるからだ。自動車の場合、メーカの台あたりの利益は販売価格の1割~2割と言われている。すなわち利益率が仮に1割だとして100万の車を10台売っても利益100万だが、1000万の車を2台売れば200万の利益が出る。一般には利益率は高級車程出るので(おそらく1000万の車なら300万は堅そう)この点を考えると、人口減の日本においてトヨタがレクサスを展開したのは至極妥当な判断だったと思える。もちろん、すでにイメージが出来上がっている「トヨタ」ブランドで展開するのは限界がある。なのでホンダは「アキュラ」日産は「インフィニティ」といった北米でのブランドを日本に持ち込む時期を「レクサス」の状況を見ながら見計らっている。

何が言いたいか?日本における「レクサス」という組織は「利益」を挙げる事を目的に作られた組織なのではないのか?(内部の事情は知らないので、本当の所は知りえないが・・)

北米、欧州においては既にレクサスブランドだった、日本におけるアルテッサ、ソアラ、アリスト、セルシオ、ハリヤーといった車種をモデルチェンジ、もしくは一部改良して「レクサス」として販売した。もちろん利益率は相当高いと想像できる。
(だからと言って、ベンツやBMWの日本における利益率がレクサスに比べて低いとは思えない。)
しかしこれでは消費者がわざわざ高いコストを支払い、高い利益をメーカに与えるインセンティブはどこにも無い。ゴージャスなディーラの「おもてなし」対して払うのか?もちろん「組織」の言い訳としては、性能、品質、価格、サービスどれをとっても「ベンツ」や「BMW」より素晴らしい。と言うだろうし、実際にそういう面も多いのだろう。しかしそれは「組織」としての「言い訳」にしかならない。

ブランド構築の方法論が完全に逆である。もし「レクサス」組織の存在目的が「利益」であるとするならば、今すぐにでも改めるべきである。

もっとハッキリ言おう!
「レクサス」は今のところ「シビックハイブリッド」でしか無い。

「レクサスって何?」と聞けば「トヨタの高級車ブランド」と答える人が多いだろうが、「高級車って?」と聞いて「レクサス」と真っ先に答える人は少ない筈だ。既存車種である「シビック」にモーターを加えてハイブリッドカーです。もしそれが「プリウスより価格も性能の優れています。」と言っても誰も相手にしない様に、既存車種に高級車の要素を加えて「高級車です」といっても通用しないのだ。

レクサスに割り当てられた技術者達が既存プラットフォームや共有化された部品の中で「利益率」を意識しながら車を作るのでは無く、全くのゼロベースで真の高級車を考えて作ってみてはどうか?もしかすると完成した車はものすごく利益率が悪く、かつ、今までのやり方で作った車と性能、品質面でも変わらないかも知れない。しかし、本気で高級を追求したのであれば、組織として高級に対する試行錯誤が生まれる。そうする事によって初めて「トヨタの高級ブランド「レクサス」」が誕生するのではないのか?

しかし、今もし「レクサス」が利益追求型組織のままでいるならば、既存車種の「格上げ」が終わった後に取る行為はベンツ、BMWに対する「インサイト」の発売だろう。それではエコカーの市場でイノベーションを起こしたプリウスの様に、高級車の市場でイノベーションは起こせない。私がトヨタの社長であれば「レクサス」の組織は利益追求型組織では無く、イノベーション追及型組織にする。そうした方が後々「利益」に繋がると考えるからだ。

ブランド構築は急がば回れですよヨ。トヨタさん。
ああっ・・ついでにホンダに関しては今一度「オヤジ」さんに雷を落とされた方が良いね。

起業

起業なんかするもんじゃない。

最近まわりで、起業する人間が増えている気がする。
不景気で会社の先行きを不安を覚えたり、嫌な目にあったり。理由は様々あると思うが、「度胸あるな~」と関心する。
起業した新規に法人登録された会社が生き残れる可能性は・・・

1年以内に60%が倒産
5年以内に80%が倒産
10年以内に95%が倒産

らしい!
まあデータの取り方とかによっては違うと思うが、こんなもんでしょうね。
脱サラしてまず何を始めるか?
手っ取り早そうなのは、
コンビニや飲食店などのフランチャイズ。いや~ロイヤリティが高そうだ・・
いちから自分の暖簾で始める・・・普通にキツイ。仕入も高いそうだし・・
ネットショップ?副業なら良いけど、これだけで食べてくのは・・・
人材派遣や受託請負型のシステム会社?まあこれは自己資本もかからないし始めるのにはそれほどリスクは無いかな?大体自分の元居た会社や取引先に雇って貰う事から始められるし・・・しか~し。昨今の不況や、新興国でのオフショア開発の状況を見ていると、そうそう安泰とも言えなさそうだし、そもそもそのモデルでこの時代発展させるのは至難の業だと思う。

上記に挙げた様な業種は、一言で言えば参入障壁が低い業種。まあだから割に気軽に始められる訳だが、参入障壁が低いという事は誰にでも始められる訳だから競争は当然激しい。
なにか画期的なビジネスモデルや商品があれば良いが・・その様なビジネスの場合、大体、開発コストやら、製造コストが掛るので人や金や設備投資が必要で、資金を集めるのが大変だし、集まったとしてもとてもリスクは非常に高い。

そんな訳で!?(どんな訳?)
私のまわりだとコンサルタントとして起業する人が多い。コンサルだと基本的に資本は全く必要ない。自宅とパソコンできればプリンター位なので簡単。まあサラリーマン時代の経験や人脈を活かせばなんとかなりそう!

が、人脈は兎も角、サラリーマン時代の経験って・・・と思わなくもない。
営業部門に長く居て、実績をあげてきたから「営業コンサルタントです」と言われましても。と普通なる。で、色々な本とかから知識を得て、自分なりに脚色して○○○式とか付けて、あまりその手の本とか読んでなさそうな中小零細企業を相手にする。あとは自慢のしゃべりで寝技に持ち込めばなんとか・・・まあ、こういうパターンで上手く行っている人も確かに結構います。それでそこそこ会社が大きくなっても、まあ良くて年商数億規模、社員数十名規模から大きくはならない。

だって、そもそもノウハウ売っているんだから、当然最初は必殺トークで中小企業のおっさん達が喜んでも、喜び勇んでセミナー開きまくって、本とか書きまくればノウハウ自体がコモディティ化する。また、その人がそうした様に今度はそのノウハウを脚色して○○△式なんてのを売り出す人が出てくる(笑)

いゃあ、その人自体は天才的にコンサルタントとしての能力が高く、単なるノウハウ売りでは無く、本質的な企業課題に突っ込んでいけたとしても、その後に続くかわいいコンサルさん達は、その人のノウハウを切り売りするか単なる営業しかできない。
有名戦略系ファームの様に、コンサルを育てあげるノウハウは残念ながら営業一筋のこの方には望めないだろう。
そもそも、この手の方はコンサルファームの言う事なんか机上の空論。私は実践。と言って商売しているんだから本望だろうけど。

ちなみに、この手の会社の特徴は

・HPが会社の紹介というより単なる代表の紹介サイトだったりする。
・サービスとか代表の枕詞に「最強」「絶対」「世界一」「カリスマ」とかがつく事が多い。
・いつもセミナーやっている。
・出版や寄稿自慢が多い。

→普通にそれって限界あるよね。

割切っていれば良いのよ。それでも。でも勘違いして自分の経営能力が如何に優れているか?的な話しをし始めちゃうと・・あらら。
別に小生この手の方々を否定している訳では無いんですよ。クライアントにはノウハウやショック療法も必要です。
ただね。ご自身の会社の経営がどの様にして成り立っているか?ちゃんと理解して次の成長戦略描いてます?まさか次はテレビ出演しコメンテータを務めて、とか考えてないよね!?コンサルだもんね!と、ちょっと問うてみたくもなる。

ただ、起業では無く独立であったらコンサルは良いかもしれない。これまでの派遣や業務請負は単純作業やノンコア業務で、目的もコスト削減でしたが、例えば社内の改革プロジェクトを立ち上げる際に、経験や専門スキルのある人に入ってもらう。
こういうニーズは増えるだろう。

なんか起業の話からコンサルの話しになってしまったが、まあ、普通に大変だと思います起業は。

2009年4月6日月曜日

不況を乗り越えるのは

未曾有の大不況である。
小生のまわりでも失業者が増えてきたし、回りの企業に聞いても景気の良い話しは何ひとつない。

小生自身はサブプライムローンの問題がテレビ、新聞に取り上げられ始めた時期、2007年の5、6月位であったろうか?この時点でのこれは相当にまずいことになるのではないかととの予感はあった。この頃の経済アナリストなどの専門家の認識は、日本での影響は限定的という楽観的な見方ばかりであったが、小生は金融や、経済の専門家では無いが米国の個人消費が世界のGDPの約3割を締め、またその消費が個人の借金によって支えられている事位の知識はあった。その流れが逆流し始めると大変な事になるぞ。という単なるカン見たいなものであるが、当時勤めていた会社の社内情報共有システムにもその事を書きこんだ。
即ちサブプライムローンの焦げ付きによって、貸し渋りが発生、通常のプライムローンであってもなかなかローンが組めなくなる。景気の循環が悪くなり、リストラや賃下げ、失業者の増加が起きる。このマイナス循環が発生する事によって、借金して「お買いもの」をする米流の個人消費が、出来なくなってしまうのではないか?自動車や家電といった日本を支える輸出産業は北米市場依存度が高い。開拓しつつある新興国においても、その発展が北米への輸出に頼っている以上、これは相当にマズイ事になるのではないか?というのが小生が考えた懸念である。

(ちなみに2008年末の時点で、某有名経済紙の2009年の経済予想で、著名アナリストが未だにデカップリンク論を強弁しているのは閉口した。国内の自動車販売は今回の問題が大きくなる以前から冷え込んでいたというのがその論拠の様に書かれていた記憶があるが、ここまでくると読んでいるこちらが気恥ずかしい。)

2007年末から徐々にこの問題の扱いは大きくなってきたが、当の米国の個人消費はさほど落ち込まなかった。米国の個人消費を占う年末のクリスマス商戦におてても、小生の想像よりは落ち込みが少なかった。伸び率でいうと確かに低調であったが、それでも前年比で3.7%の増である。
米国人というのは、どこまでも楽観的、前向きな人種だなと変な関心をした覚えがある。

年が明けて、米国が利下げなどの対応を行うにつれ、小生もこれはしばらくすると落ち着くかな?と思えたが、去年末私が懸念した実態経済の落ち込みが先では無く、リーマンブラザースの破たんという形で金融市場の方が一気に吹っ飛んでしまった。
小生は実態経済の悪化から始まって金融収縮が起こると読んでいたが、全くの逆であった。金融が先に吹っ飛び、消費どころでは無くなった形だ。その意味で本当の不況はこれからでは無いかと思う。金融破綻→米国個人消費市場→日本の輸出産業の落ち込み→輸出産業を取り巻く国内サービス業の落ち込み(今はこの段階だと言える)、その次に来るのは、流通小売。とりわけ、スーパー。これは国内の個人消費マインドが完全に冷え込んでいる事を意味する。外需も内需も駄目であれば、良くなる要素はどこにもない。

専門外の慣れない話しはここまでとして、今後の実態経済の方向性と、景気向上策として日本版「グリーンニューディール」を行うべしとする向きが多い。環境技術で世界をリードしているのは日本だろう。その強みを伸ばす方向性は全く否定しない。

しかし、違和感もある。ハイブリッドカーへの買換えの支援をして、みなが車を買い換える事が本当に、エコかとどうか(笑)?
という議論ももちろんあるが、良くいう「環境立国」が本当に日本の目指すべき長期目標となりうるのかという点である?
自国の強みを活かして、尚且つ環境に良い社会を目指す事に何の違和感があるのか?と言われれば、それは「変革」とい言葉があてはまる。極論すれば、高速道路やダムを作る会社を儲けさせるか?環境技術を持つ製造業を儲けさせるか?の選択をした所で、日本という国家のシステムは何一つ変わらない。

今回の世界同時不況は、資本主義の限界を突き付けた面が多分にある。小生はこの不況を抜け出す国は、国家システムそのものを次世代型に「変革」できた国では無いかと考える。

ひどく具体的な話しで言うならば、ある駄目駄目総合電気メーカがあるとする。赤字は7000億にもなる。旧態前として変化せず、経営陣は自己保身しか考えない。縦割りが酷く効率化できない、部門の利益しか考えていない。技術はあるが市場に対して画期的な新商品も出せない。若手は古株に抑圧されて自由にできない。
例えばこんな会社が、これからは○○という分野のニーズが高くなりそうだから、今後はその分野の研究開発に力を入れて主力製品を変えていこう(笑)。
とやっただけで、この会社が今後飛躍できるのか? 良くって現状維持だろう・・

では何を目指せば良いのか?小生は今こそ「IT立国」を目指すべきだと愚考する。
IT産業なんて存在しない!と以前書いた人間が何を言っているのか?と思われるかもしれないが、21世紀は、環境技術の時代では無く、情報技術の時代だと思っている。それは情報スーパーハイウェイ構想(古っ!)とか電子政府を目指すとかそういう話しでは無い。

小生は、ネットの活用度は高い。気になる情報、知りたい知識はネットから得る。もちろん新聞や本といったソースも積極的に使ってはいる。しかし何時でも情報を引き出せる世の中になった変化は計りしれない。社会人、私人としてもこれは相当な変化をもたらしてきた。しかし社会システム自体はこの変化についていけていない。

一例を挙げよう、今試験会場に、インターネット接続可能なPCの利用が許可されたら、どうなるだろうか?試験の内容にもよるだろうが、皆100点を取るだろうか?おそらく中には50点しか取れない人もでるだろう?その差は答えを知っているかどうか(暗記している)の点差では無く、如何に上手にググれるか?の勝負になると言って良い。

この事が何を意味しているのか?あくまでも極論としてだが、記憶力コンテストだった今までの試験、受験というのは、批判はありながらも、物事を知っているor知らないという価値が実社会においても評価にもなるという事の正当性があった訳だが、現代の実社会において、それで人間の能力を測るのに全く無意味になってしまっている。
(本音ではまじめに「努力」が出来る人間か否かのコンテストでしょうが・・)

それよりも如何に、正確に情報を引き出すかのリテラシーを持った人間の方が遥かに評価ができるという事だ。(あくまで暗記 vs Google使いを、一視点軸で見ればだが)

もちろん学校教育におていインターネットの上手な使い方をしっかり教るべきという話しではない。
情報は何時でも、正確にネットから引き出せると仮定した時に必要な要素な何か?情報を記憶するのに長けている。情報を引き出すのに長けている。の問題では無く、その情報をもとに「思考」し本質的な解を求め行動できるかどうかが問われるのではないのか?

残念ながら日本の教育において「思考」する訓練というのは殆ど行われていない。これからの実社会において、個々人の思考力の差が、国家の力となる筈である。これほど情報のインフラが劇的に変化しているにも関わらず、相変わらず教科書に載っている内容を、如何に暗記するかの教育をやっている。日本人はただでさえ言語というハンディがある。情報のインフラが世界中で繋がり整備されてもそれを活用するのに、スタート時点でだいぶ遅れをとってしまう。

時間は掛るかもしれないが、言語の壁は現状の延長戦上にある教育もしくは、ITの進歩によって解決していく可能性はある。しかし情報を活用し活かす「思考力」に差がでれば、これは絶望的に国家の力を衰退させてしまう。

それから、政治。今の政治システムは本当に民が主体だろうか?議会制民主主義自体、見直す時期には来ていないか?政党の必要性が本当にあるのか?官僚の在り方は?それは、自民党憎し、官僚憎し、社保庁憎し、という次元の話しではない。様々な悪癖を、個々に起きた事象、現象の表面を捉え、悪い、憎い、腹を切れと合唱し、法律で規制する事が本質的な物事の解決になるだろうか?その本質はシステム自体が引き起こしているのでは無いのか?インターネットの発展は直接民主主義への可能性だって充分検討余地ができる筈だ。

一遍を見れば、企業においてはITを活かす事で、既存の縦割り型機能別の弊害を解消し、フラットで迅速な意思決定を可能にし、競争力を高めている企業は幾らでもある。もちろん国家政治と企業を並列で捉えられない面は多い。しかし表面的に現れる現象、事象は個々の能力や、モラールによって引き起こされているのでは無く、起こるべくして現象、事象を引き起こしている本質的なシステムの問題が必ず存在する。

この点においては安倍前首相の「戦後レジュームからの脱却」というテーマはひどく現実的な解であった様に思う。しかし多分に戦後政治へのアンチテーゼであり、何を目指す為に脱却するのかの論点が薄かったのと、自身の政治指導力に関しての疑問が残った感も否めない。

国家を日本株式会社と見た場合、今大変な危機にある事は言うまでもない。企業の状態を示す有名な言葉に「ゆで蛙」という言葉がある。本当にそうであるかは置いておいて、沸騰したお湯の中に蛙を放り込むと、当然ビックリして飛び出そうとする。しかし、水を浸した鍋に蛙を入れ段々と温めて行くと、蛙は沸騰するまで気づかずに茹であがって死んでしまう。という現象を企業の状態に例え、このままだと自社は危ない。何とかしなくてはと。心では思いつつ行動に移せない状態で、ちっとも変革できない様を示している。
日本は今まさに茹であがろうとしているのではないか?小生は常にそんな危機感を抱いている。

ハーバード大のクリステンセン教授が有名な著書「イノベーションのジレンマ」で、組織の能力は、資源(人とかお金)、プロセス、価値基準に従うと示している。資源は容易に移す事が可能だが、プロセスは価値基準によって最適化される為、破壊的イノベーションを生みだすには、既存組織に優秀な人材やお金を幾ら投入した所で無駄で、全くの別組織を作るか、全く別の価値基準をその組織に与えるしかないと示している。この事は会社勤めの経験者であれば誰もが納得する話しであろう。小生もサラリーマン時代ベンチャー企業に在籍した時期がある。その会社は創業から10年足らずで一部上場を果たす程の勢いであったが、突如逆風に曝された。(もちろん実際は突如では無く完全に論理的に説明できるのだがここでは割愛する)
しかし一度成功を味わった価値基準は容易には変革できない。同書でトヨタはプロセスを絶えず変革する事で強さを得たという説明がある。トヨタは勿論、現場からのQCサークルによる「カイゼン」によってプロセスを磨きあげてきた。
一方、組織の持つ価値基準はどうであろうか?ハッキリいってこれはを変えるのはボトムアップでは無理だ。出来るとしたら革命でありクーデターが必要になる。必ずトップダウンで行う必要がある。

歴史は国家システムの変革は常にこの二点(革命か破壊的な指導者)によってもたらされている。

しかし、フラット化した国家の構築ができれば(グローバルなフラット化では無く)真に民衆による政治が可能になる筈だ。確かにそのシステムを最初に築くには、ある程度上記二点の要件を満たす必要性がある。
しかし一度、それを築ければ自律的組織となり、常に適切な自己変革ができるであろう。

その為に絶対条件となるのは、正確な情報を引き出すリテラシーと、その情報から自ら思考できる「思考力」の二点に他ならない。
前者はネット社会において否応なしに飛躍的に高まって行くだろう。しかし後者はほっておいても育たない。またこの二点が育って且つ国家システムがそれに応じられない時は、国民にフラストレーションのみが高まるだけであろう。
今こそIT立国を目指せ!それは21世紀型の国家の形である。
(長くなったので後半はかなり端折ったので飛躍し過ぎだろう。またの機会に細かく説明したい)

2009年3月12日木曜日

クラウドはお好き?

クラウンドコンピューティング(以下クラウド)。はっきり言います。小生この言葉が大嫌い。
大嫌いと言う位だから、これは完全に私の個人的な嗜好の話しという前提で書きます。

クラウドコンピューティングに関して、下記Wikipediaより、

*****
従来のコンピュータ利用形態はユーザー(企業、個人など)がコンピュータ(ハードウェア、ソフトウェア)とデータを自分自身で所持し管理していたのに対し、クラウドコンピューティングでは「ユーザーはインターネットの向こう側からサービスを受け、サービス利用料金を払う」形になる。
*****

まず何か嫌いか?クラウドは「規模の経済」が働きすぎる。クラウドのビジネスをするのであれば、インターネットの向こうに多額の投資をする必要がある。データセンターや運営やサーバ、管理コスト。当然、利用者が増えれば、増えるほどこのコストは下がっていき、より良い「向こう側」を構築する事ができる。同時に「浮いたお金」でどんどん広告、宣伝を行う。利用者が増える。この循環がどんどん発生する。
当然ここには自己資本で始めた様な新規ITベンチャーがこのビジネスに参入する余地はない。すでにあるクラウド?上にサービスを構築するしかなくなるだろう。どこかのベンダーがそう表現する様に、クラウドベンダーは電気会社や水道会社の様な、インフラ企業となる事目指しているのだから当然かもしれないが、例えば革新的なソフトウェアのアイディアが生まれたとしても、それを作るのは、どこかのクラウドのインフラ上に構築する以外無い。と、するとそれはとても悲しい事では無いだろうか?クラウドはむしろオープン化の逆を行っている様に思えてならない。もちろんクラウドがデファクトになったとすればの話しだが・・・

ここまで書くと何かピンとこないだろうか?

クラウド勢はOSとオフィスソフトで覇権を握ったマイクロソフトを攻撃の対象としている。しかし、もしもどこかがクラウドで覇権を握れば、もはやそれを覆すのは至難の業になるのは自明で、結局は次のマイクロソフトを生むだけなのだ。
もちろん等のマイクロソフト自身もクラウド参入を表明している訳だが、まだまだいろいろな意味で含みを持たせている。どちらにも転べる様に・・・もちろん小生がマイクロソフトの熱心な信者では無い事も明言しておく。

ただ、
1・どこかのクラウドベンダーがマイクロソフト倒す。
2・マイクロソフトがクラウドの覇者となる
3・クラウドは流行らず、旧来のマイクロソフト型ビジネスが続く。
4・旧来のマイクロソフトビジネスとクラウドビジネスが共存する

実は小生はどうなろうが大した興味は無い。クラウドは嫌いと書いたが、もし仮に1・な世の中になっても受け入れる事はできる。クラウドが嫌いな最大の理由は、利用者側からみた時のクラウドの影響がどこまでどの様にあるかを考えた時である。
クラウド、クラウドと連呼したところで、それがもたらす影響は、

1・サーバの置き場所が変わる
2・支払う費用が変わる(安くなるとは限らない)
3・支払い方法が変わる

だけ。である。本当に「だけ」である。他に何かあるのであれば、是非教えて欲しい。
「インターネットに接続すればいつでも、どこでもプラットフォームに関係なく利用する事ができる」
「サーバのスペースや管理者が必要なくなる」
「使わなくなったら、辞める事ができる」
「ITを利用するのにどの様なサービスを利用したいか選ぶだけで良くなる」
幾ら、詭弁を弄した所で上記3つから外はれない。

○○コンピューティングという言葉で、思いだすのはEUC(エンドユーザコンピューティング)という言葉だ。ずいぶん昔に流行った言葉であるが、EUCがもたらしたインパクトは何であったか?企業内コンピューティングという観点で振り返ってみたい。

それこそ、20年も前に遡れば、パソコンはまだ企業では使われておらず、ホストコンピュータと呼ばれる大型コンピュータが企業における情報処理の中心だった。あとは部門毎位にホストコンピュータに繋がる端末(これ自体は何の処理もしない)と、ワープロと、電卓と言ったところだろう。
売上の集計や在庫管理、経理処理等々、何をするにも部門の利用者(エンドユーザ)は、電算室に依頼を出し、電算室の人間が自ら、プログラムを作成し、テストを行い。完成させる。というフェーズを経て、ホストコンピュータの空いている時間に、バッチ処理として流してもらう必要がった。すなわち業務担当者達はコンピュータを利用していた訳では無く、コンピュータに処理してもらっていた。分かりやすく言うと、どこか目的地に移動するにあったて、公共機関。電車やバスを利用するのか、自家用車で行くかの違いと似ている。前者は自分が好きな時間に、好きな場所で乗って、好きな場所で降りるわけにはいかない。あくまでも乗る場所は、バス停か駅。時間は時刻表に従う。降りる場所も決められた場所となる。後者は何の原則なんの制約も受けない。(法律と道路の及ぶ範囲で)

ビジネスの世界でパソコンの利用が一人一台となり、コンピューターの利用が各個人レベルに落ちた事は、非常にインパクトがあった。むろん当初はスタンドアロンで表計算やワープロが中心であったが、それでも「ちょっとした業務」を自分のパソコンで出来る様になったメリットは図りしれない。その後、企業内ネットワークが発達しクライアント&サーバ型のエンタープライズアプリケーションの登場により、いよいよホストコンピュータ中心のコンピューティングから、エンドユーザコンピューティングが活発化する。もちろん企業の中にいろいろな「ミニシステム」が構築されたり、気軽に導入出来るからといって部門レベルでのシステムが構築され、分散しすぎた企業内システムが弊害を引き起こしてきた事も事実だ。
しかし、インパクトの面で見れば、エンドユーザコンピューティングはクラウドコンピューティングとは比べモノにならない程、我々のコンピュータの利用の方法を変えてきた。

確かに理論上は、クラウドコンピューティングは規模の経済の上に成り立つ為、利用者が増え、業者も淘汰が進めば、支払うコストは少なく済む筈だ。しかし件のマイクロソフトはOSやビジネスソフトを圧倒的に支配するまでになったが、コスト面では利用者が恩恵を受けた事は少ない。むしろ望みもしないバージョンアップを強要され、本来払いたくもないコストを支払わされてきた感がある。

クラウドがそうであると危険を提唱するつもりは無い。なぜならクラウドが覇権を握る可能性が非常に低いと考えるからだ。小生、雲のこちら側の人々にも知り合いは多くいる。が、残念ながら「クラウド」という言葉など全く興味が無い人が殆どだ。経済危機の中でどう舵取りしていくか?本当に真剣だ。あちら側の人達との温度差を考えれば、小生がそう考える理由がそこにある。
あちら側の人達に望む事は、本当にビジネスに役に立つコンピュータ利用方法の提供であって、(エンタープライズアプリケーション導入プロジェクト成功率が3割?)、良く分からない「雲」を「こんどはコレですよ!」と、こちら側に売り込みをされる事では無い。

本来は経済危機に立ち向かう立派な武器になる筈のコンピュータを、「雲」などと言ってごまかすのはもうやめて欲しい。スタンドアロンでも、クライアントサーバでも安くて役に立つのであればいい筈だ。環境に役立てるのであれば、超ハイスペックになったクライアントPCのCPUをフルにぶん回した方がよっぽど良い。

(ちなみに小生は去年8月にノートPCを新調したが、全く快適では無い。WindowsVistaは最低のOSだ。折角のハイスペックなPCのパワーの殆どOSに取られ、業務効率はちっとも上がらない。)

おそらく向こう側の人達も本音では、こんな事言われなくても十分理解している。しかしエンタープライズのアプリケーションを企業経営にどう役立てるのかを提言するより、コンピュータ屋の得意なプラットフォームやテクノロジーの話しに挿げ替える方が楽に決まっている。雲の向こうにいる人達は神様になりたいのかもしれないが、顧客はもっと別の足元で悩んでいる。
最低限、その人達に解る言葉で伝えなければその宗教は流行らない。その為の伝道師達作りにも躍起の様だが、自分が儲ける事を考えている神様と、おこぼれをもらおうとする伝道師達の関係では、あやしげな新興宗教となにひとつ違いは無いのではないか?

2009年2月24日火曜日

侍ジャパンと直江兼続と農耕民族

WBC盛り上がっているのは日本だけ?と報道がありつつも、練習試合とかはやっぱりすごく注目されていて、まあ、いいじゃない日本だけで盛り上がっても、、またチャンプになれるなら、世界一なんだし素直に応援しようと思う今日この頃。

しかし「侍ジャパン」てネーミング、私的にはとっても頂けない。野球に限らず、日本チームや日本人選手が世界を相手に戦う時にマスコミは「侍」とか「武士道」とか付けるの大好き。どうも体格、体力では負けていても、精神力でカバーするとかそういうマインドの象徴なんだろうけど、肝心の試合を見ていると、どうも普通に「体力」でも「技術」だけでなく「精神力」でも負けてるんじゃ?むしろ「体力」や「技術」は遜色なくても「精神力」で負けてるんじゃ?と思う事もしばしば・・・

一般的な見方をしてしまえば、やっぱり他の国の選手の方がハングリー精神旺盛だったり、世界で戦う事が標準で、逆に日本チームや日本人選手は意識しすぎなんじゃないの?と思う。北京五輪の野球の結果をみても、他国に比べ圧倒的な高額年俸をもらうプロ選手連合が高級ホタルに泊ってメダルも無しの結果。

「侍」とか「武士道」とかからイメージする、与えられた環境や状況に左右されず、自らを犠牲にしても孤高に己の信じた正しい道を突き詰める姿とは正反対な気が印象を持つ。

今回、「侍」なんてつけて、もしWBCで結果が出ないと、相当に叩かれるでしょう。正に「ハラキリ」状態(原切り)
でも現実問題、腹は切れないので、寄せた期待と高揚感(日本の野球は本来強いんだ)の行き所として、ハングリー精神が足りなかった。環境適応能力(ボールがとか審判が)などの分析をして見せる。

ビジネスの世界では、「侍魂」や「武士道」はあまり聞かない。「侍商売」、「武士道経営」じゃ如何にも上手く行きそうもない。それより、むしろ「日本は農耕民族だから・・・」という表現を良く使う。「・・・」の所は、結局、「気を使って大人しい」「和を重んじるので我利我利亡者にはなれません」「他人を蹴落とす様なやり方は出来ません」「すべて契約ありきのドライな関係では仕事しません」と言った表現が入るのだろうが、先の北京五輪の結果とかと照らし合わせると、戦う前は「侍」「武士道」で、結果が出ると「農耕民族」に様変わりしてしまうのでは?と勘ぐってしまわなくもない。

もともと江戸時代の士族は大体人口の1割程度だったらしい。一番多いのは当然「農民」。しかも一割の武士が皆、言われている様な侍魂や武士道の持ち主だったかというと、それも個人的にかなり疑問が残る。もちろん教養としては備えていただろうが、それはあくまで教養、知識の世界であって本当にそんなメンタリティで行動していたとは思えない。仕事だって「武士」といっても所謂「役人」であって、チャンバラをやっていた訳ではないだろう。

逆にそういう世の中だからこそ「大石内蔵助」あたりの奇特な行動が「武士の鑑」的な扱いを受けるのだろう。全員がそうであるならば注目はされない。
幕末においても、多分に小説などの影響はあるにせよ、そもそもの武士であった「旗本」あたりはとっとと幕府を見捨ててしまい、譜代大名の象徴ともいえる井伊家なんかが真っ先に官軍に寝返りする始末で、農民とかが集まった新撰組あたりの方がよっぽど「武士らしい」行動をとったという皮肉から見ても容易に想像がつく。

戦国時代は「主を七度変えてこと一人前の武士」と言われていた様に、「裏切り」なんて当たり前の世界。だからこその下剋上。その中で今大河ドラマでやっている「謙信」-「景勝」「兼続」あたりは、「義」の精神を自身の行動レベルに落としていたのだから現代的な基準からみれば「武士の鑑」的な人物像かもしれないが、当時としては相当な変わり者だろう。だからそれほど波乱万丈でなくても、なんとかドラマにできるのかもしれない。

新渡戸稲造の「武士道」が、日本が単なる辺境の未文明国で無い事をアピールする為に描かれ、また「ハラキリ」や「特攻」といった行為がアンビリーバブルなジャパニーズの象徴であるとするならば、そろそろ「実はそれは一時期の方便でありまして・・」と素直に認め、実は「侍」-「Samurai-Japan」では無く「農民」-「Noumin-Japan」とした方が、今の時代しっくりくるかなと愚考してしまう。

「農民スピリット」「村社会」が「和」の精神というか自己の所属するコミュニティへの過度の防衛本能を生み、コミュニティの中で和を乱す者を排除する。外からコミュニティを脅かす者は、身を賭してでも排除する。と考えればむしろ「ハラキリ」や「特攻」の精神も説明し易いと思う。
戦国時代や幕末、戦後というのは、今までの体制が崩れた時。すなわちコミュニティも大なり小なりの崩壊を起こした時に、日本人というのは猛烈に新しい価値基準のコミュニティ作りに熱病に侵された如く邁進する。今まで、ついこないだまで、過度なまでに自分達のコミュニティを守る為に支配されてきた価値基準を、全くなかった事の様に振る舞う。

小生は「侍-武士道」⇔「農耕民族」ではどうも相容れない矛盾を感じてしまう。「農夫-村社会-農民道」の方が実は日本人のメンタリティとして主で、武士道は安定を生むための方便と考えた方がしっくりくる。

「昨日まで全然違う事いっていたじゃん!」
「反対する奴は、自分がどうなろうと許さないとか言ったよな!」

「え、あれ!?あれは冗談だよ~ん!っていうか騙されてたんだよね」
「明日からはこっちだよ、こっち!」

ちなみに学生運動頑張っちゃた団塊の世代なんかにも「Noumin-Japan」の精神を感じる・・・
それは、それで、大らかで良い気もするが、どちらにせよ、そろそろ侍とか武士道とかで日本を表現するのは辞めてみては?

少し話しは外れるが、大阪の吹田市の採用試験は5名募集に対して2300名の応募だそうだ。あれ・・・みんな公務員、官僚は悪し!憎し!じゃなかったのかな?これは侍?武士道?それとも農民道?

鋤や鍬を構えた、モンペ姿のイメージキャラクターで「和」の精神で戦いに挑みます。とした方が相手チームに理解不能な畏怖を植え付けられて効果的かも。

2009年2月3日火曜日

ブラック企業になれますか?

IT産業とかIT企業。という言葉はすっかり定着した感があるが、そのイメージはと聞かれれば「虚業」「如何わしい」「新3K(きつい、厳しい、帰れない)」「ゼネコン体質」と、小生が思い浮かぶだけでもマイナスイメージのオンパレードだ。

「虚業」に関しては、ライブドア事件以来すっかり定着したが、「新3K」とか「ITゼネコン」は、かなり昔からこの業界には蔓延している。SIerやソフトハウスと呼ばれる企業の多重請負体質が、その要因となっている。

小生、仕事柄このIT企業の経営層と話す機会が結構あるのだが、昨今の経済環境は当然これらIT産業へもダメージをもたらしている。もともとIT技術者はグローバル化し、中国、インドでのオフショア開発も盛んになり、人月の単価は下落傾向にあったが、それでも、つい去年の中までは、システム投資も右肩上がりだった為、業界自体はまだまだ伸びている感があった。そこへ今回の経済危機。単価が下がっている状況で、需要が一気に冷え込んだのだから、中堅以下のシステム会社(ここではあえてそう表現する)は相当に厳しい状況と言える。

「受託開発や請負派遣だけでは、もうやっていけない事は解っているので、何とか脱却したいのですが・・・」

こう言う話しは経済危機よりも前も随分と聞いたが、一気に深刻化したといえる。
しかし、残念ながら、小生「大変ですね」としか答え様がない。
「受託開発」というのは「ITゼネコン」の言葉が表わす様に、どこか一次請け、二次請け、下手をすると三次、四次・・・がいて、エンドユーザはどこかすら知らず、言われたシステム(の一部)を開発する事が多い。もしくは元請け会社に出向してプロジェクトメンバーとして振る舞う「業務請負」形式で仕事を取ってきたりする。

確かにシステム会社の中でも、元請け会社に「業務請負」として「常駐」させる事(はっきり言って偽装請負です。)を生業としている企業は一番馬鹿にされている。(その次が受託開発かな)
では「脱却」とは何を指しているのか?
その殆どは「自前でパッケージソフトを開発して直接販売」したり「エンドユーザに対して、直接ソリューション提供していく」などの行為を指している様だ・・・

言葉をIT産業に戻そう。小生の勝手な見解を言わせて頂くなら「世の中に「IT産業」なんて産業は存在していない」。
もし、そんな産業が存在するならば、それは全て「虚業」である。

「IT産業」に所属する「IT企業」はハードメーカ、ソフトメーカ、通信事業者・・多種、多様に渡る様であるが、一般的にはIT=Information Technology=情報技術である。「情報技術産業」?例えば「宇宙技術」「航空技術」なら解る。何かしらのIndustryに対するTechnologyであるのに対して、informationはそうでは無い。
辞書を調べるとInformation Technology=情報工学となる様だ、小生は英語全く駄目なのでボロが出そうだが、技術そのものが産業になる事なんて本来ありえない筈だ。例えば、数ミクロンという単位で金属を削れる職人が揃っている金属加工技術会社です。なんてありえないのだ。

・金属加工のスペシャリストを派遣する「人材派遣会社」です。
・金型等を数ミクロン単位の精度で削る「金属加工会社」です。

のどちらかだろう。

更に続けよう。

基本的にIT企業という言葉で語られる成功企業は、「ショッピングモールの運営」であったり、「携帯電話の販売」であったり「金融商品の販売」であったり「ゲーム、娯楽を提供、販売」「本の販売」「広告収益で稼ぐメディア」であったり「電子文房具」や「電子大福帳」を作っているメーカであったりする。
もちろん裏にはネットワーク機器のメーカやサービス企業がいる。そのさらに裏にはOSメーカやらもあり、ちゃんと川下である一般消費者に対して明確な価値提供が行われており、川上からバリューネットワークが構築されているのである。
然るに、情報技術だけでは何の経済的価値を生むことは無い。

話がだいぶ飛躍したので戻し、5年ほど前、ネットでブラック企業の最右翼とされるシステム会社の幹部と話しをした際に聞いた言葉を紹介しよう。
その人は「うちがここまで大きくなり成功したのは、決して上流工程に手を出さなかった為だ」と言い切った。

その当時、その会社の新卒採用は1000名を超えていた。当然、彼ら(彼女ら)もプログラマーなどの下流工程の仕事を、下請けでやっていると限界を感じて来る。キャリアパスに不安を覚え、上流のSEを目指そうとうするのは自然の流れだ。しかしこの会社は規模は大きいが上流を決してやらない為、殆ど30際前後で辞めていくそうだ。
社員達はきっと、自分のキャリアだけで無く、多少の愛社精神からもウチの会社も、もっと上流をやれば会社としても「脱却」できるのに・・と考え憮然と辞めていくのだろう。容易に想像がつく。
が、その会社は実は意図して「脱却」しない様にしているのだ。
まさにブラック企業の面目躍如といったところか。。。

しかし、考えても見て欲しい。小生の知る限り日本の「IT産業」とやらの6割位は、単なる「人材斡旋業」だ?いくらカッコつけようが、契約形態が派遣契約じゃなかった所で、「脱却」したいと口だけ言ってみたところで、その中身は単に「労働力」という価値を提供してるだけに過ぎない。すなわち、経営者は、労働力を採用し、その労働力を必要としているところを見つけてきてマージンを稼ぐという斡旋稼業の元締なのだ。それ以外の価値を提供しているならば、教えてほしい。(まさかJavaに強いとか、コンサル力とか、ERPに自信有り、とか言わないよね。)
結局この6割の中でも、成功している企業は、自分達のビジネスが「人材斡旋業」であるとしっかり定義して、割り切った企業ではないだろうか。即ち可能な限り安く商品を仕入れて、可能な限り高く売る。この場合の商品は社員だ。引き受けてのない社員は在庫だ。高齢、高給の社員は仕入れ値が高い。そういうものを排除できる仕組みが必要だ。だからブラック企業と呼ばれる。よりディープに、法律すれすれ、モラルは捨てろ!ブラックに徹しきる力が成長の源だ。ディープブラック!ハードブラック!・・・(失礼!)


「受託開発や請負派遣だけではもうやっていけない事は解っているので、何とか脱却したいのですが・・・」

真面目に答えるならば、

「あなたの会社が提供している価値は何?」

「小売業?メディア?ゲーム会社?金融業?広告代理店?違いますよね」、「人材斡旋業ですよね。労働力を売っているのですよね?」
ならば「人材斡旋業から金融業や小売業、文房具メーカとかに業種転換したいの?」「なに業がしたいの?」「そんな事出来るのア・ナ・タに・・・」

それとも「もっといい客に高く労働力を売りたいの?」だったらかっこ良い事言わず、ちゃんと腹を括るべきでは?その代わりア・ナ・タは立派な「ミニブラック企業」の経営者ですよ。
「単なる人売り見たいな事はしたくない?」だったら「貴方にとって理想の斡旋業を経営してみては?」

「IT産業」・・・この言葉がギョーカイの経営者を甘えさせている気がしてならない。
そんな産業は存在しない。と思う。
決して、苦しむ人を小馬鹿にするつもりはないけれど、本当の意味で日本がIT大国になるならば、こういう経営者達のレベルアップを期待せずにはいられない。

働く事

2日ほど前の事であるが、晩御飯を某チェーンのうどん店で取った。
若い男の店員に食券を手渡すと、そのあとの行動が悪かった様で、その店員が先輩の女性店員に猛烈に怒られていた。
「なにも店のなかで、しかも私の注文の事でそんなに怒らなくても・・」と、思っていたら、今度は中国語でのお説教が始まった。二人とも中国人だったんだ。。

日本語だと叱る方も、叱られる方もいまいちコミュニケーションできなかった模様。それもあってエキサイトしたのかな!?

それにしても若い男性店員は新人バイトなんだろうけど、見るからに気が弱くておとなしそう・・!??
って、待てよ。
自分がこの店員と同じ位の年の時、言葉も通じない外国に出て、バイトして生活して・・って出来たのか?無理だろう・・よっぽど追い込まれていたらできるかも知れないが・・・

異国で言葉の全然通じない客を接客して、間違えて、叱られて。この店員がどういう事情で、そこで働いているのか、小生は知る由もない。改めて言うまでもないが、純粋にこのお金に対する貪欲さ。生きる為にお金が必要という行為はとても純粋な行為だ。

日本では「派遣切り」が騒がれているが、飲食店で正社員を募集しても、全く集まらないらしい。少なくとも、自国で、言葉が通じる環境で働けるだけでも、彼らより労働環境としては恵まれている筈だが・・・

◆ネットカフェ難民
どこの世界に、まんが、インターネット見放題の「難民」が居るのだろう。なんなら難民申請出してみたらどうだ?故郷を追われ、祖国を追われ、それでも生きる望みを捨てず生きようとする人々と同じ言葉を使うな。

◆派遣村
何もせずタバコ吸ってりゃ生活保護。こう言う連中を弱者救済とか言って政争の具に使う馬鹿ども。

中国という国の好き嫌い。中国人の好き嫌いの問題。日本の社会システム。企業経営の問題。そういう事ばかりが問題視されるが、少なくともこの気の弱そうな、若い中国人アルバイトの姿は、派遣村でテレビに映り、窮状を訴える日本人の姿よりも遥かに健全で純粋に見えた。

ブログ始め

本日、ブログなるもの初めてみる。

しかし、どうも世の中がネット、ネットと騒がれていると、どうしても背をそむけてみたくなる。

小生は巨人ファンだ。しかし、最近は選手の名前もロクに知らない。ファンとは言えないかもしれないが、まあそれでも巨人が好きだ。

と、

こんなことを不特定多数の世界に発信して何が得られるのだろうか??たぶん、この広い世の中で、この文章を目にする人は7人位で、そのうち2人位は文章まで読むかも知れない。そう考えると、なる程、確かに少し寂しい気がする。
もうちょっと見て欲しいな。と思い、内容に凝ったり、リンクを張ったりし始める。段々と読者が増え始め、コメントなんかも付き始める。更新のタイミングや内容を常に考える様になり、私の生活の一部になる。さらに進むと、メールが来たりしてリアルの世界で友達が増えたり、仕事の仲間が増えたり、逆に読者が減り始めてくると、なぜか焦りを感じ始めたりして・・・

で、「それって楽しいのか?」・・・

まあ、それはもちろん人それぞれの価値観だろう。否定はしない。
実は、ブログを初めて見た代わりと云う分けでは無いがタバコを止めた。愛煙歴約20年。絶対に止める事は無いと思って居たが、年末から一か月吸っていない。
なぜ、このタミングで辞めたのか?

健康を考えて?家族から言われて?世間様の目が痛くなってきたから?

結論からいえば経済的事情というのが一番正しい。しかし、おそらく、タバコが一箱千円になり、世の中から喫煙所が殆ど無くなってしまう様な状態になってしまったら、逆に小生はタバコを吸い続ける羽目になるだろう。。だって、禁煙するのも喫煙するのも自分の為?なのだから、人(々)から、無理やり外堀を埋められる様な事をされるのであれば、愛煙家としての意地を通さない訳にはいかない。

しかし一箱千円は強烈だ。きっと遠くない将来そうなるだろう。。。
一日一箱で、月3万円。年36万円。。。。

でも外堀を埋められたからからと言って降伏する様な男は嫌だ。で、あるならば今、経済的にも環境的にも喫煙が許される今辞めるしかない。

全くつまらない、どうしようもない理由。滑稽。自己愛。世間からは、全く理解されえない。だから、巨人ファン。と、いう訳でこのタイミングでブログを書いて見る。そして、再びタバコを吸わない事を考えて。