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2010年9月30日木曜日

デフレの原因はGoogle?

久々に「朝まで生テレビ」を見た。と言っても朝までではないのだが・・・
この番組を見るのは何年ぶりだろうか?記憶に無い位久々である。

もちろん「尖閣」の問題もあって興味本位で見た訳だが・・・
この番組が始まった当初は、他にこの手の企画の番組もなくちょこちょこ見て居たんだけど、知識人だか評論家だか知らないが、結局は自分の中の結論ありきでその為に自分の都合の良いデータやら論理だけを引っ張り出して来て自分が如何に正しいかを主張する。自分の主張を正当化する為の知識で武装するなんて下らな過ぎる。勿論反論する側も同様だから全く収拾が付かないし結論や発展的な議論になどなり様も無い。ファシリテータの能力の問題以前に、まあパネリストの選定というか、そもそもこんな連中に知識人とか評論家だなどと「称号」を与えてしまう世間がアホなのかも知れないと若いながらに思っていた。
まあ、真面目な討論番組では無く、バラエティと思って見ればまあこんなものかもしれないが。

さて、今回放送の「朝まで生テレビ」(9月24日(金)放送)のテーマは「日本を元気にする薬はあるのか?」で、「尖閣」に関しては急遽組まれたもので、経済が中心のテーマ。「尖閣」のパートはどうでも良かったのでスルーして、本題の「日本を元気にする薬はあるのか?」から・・・・しょっぱなは日本の企業はマーケティングが駄目見たいな話しが出て、とりとめもなく、次は「日銀はもっとお金を刷れ」とかそんな話しが出て・・・・・・・・・で、もうあまりの酷さ(いやむしろバラエティとしては抱腹絶倒か?)に、テレビを消してしまった。

ただ、最初に田原総一郎氏が切り出した「日本は円高でお金も強い。技術力も総じて高い。人材も他の国に比べれば優秀で良く働く。なのに何でこんなに酷いのか?」(←詳細発言に関してはうろ覚えなのでご容赦)という問い掛けは非常に良かった。この切り出しに対して、直球で回答できるパネリストは居なかった。なのでマーケティングがという超ミクロな話しから始まって日銀が・・・見たいなマクロの話しに話がブレまくって。。。。

小生が一言で言うなら、日本という国の構造(システム)が引き起こしている問題。と言う。

さて無知な小生が経済学の観点から現状を考えるのは難しいので、もっとミクロな日常から今のデフレを見て見たいと思う。デフレ下では言うまでも無く物の価値が下がっていく。物が高く売れないので給与が下がる。高い物が買えなくなるので・・・というのがデフレスパイラル。良く例えに出る牛丼。今では200円台で食べられる。ジーパンは1000円以下で買える様になった。(小生が学生の頃は安いのでも6800円位だった気がする・・・ちなみに昨日発表のサラリーマンの平均年収は407万で過去最低だそうだ)
例えば、1万円で売れて居た物が、1000円でしか売れなくなったら、そりゃ不況にもなる訳で・・・では、何で価格が下がるの?と言えば、安く作る(輸入する)事が可能になったから・・・同じ物が安く売られていたら、安い方を選ぶのは当然な訳で・・・・・おいおいおお前は小学生か?と言われそうな話しだが、高い物が買えなくなったから、安い物を買っている訳では無く、単純に見れば、国や企業が望む。望まないにせよ、新興国の発展、グローバル化などで、安く売る(作る)事が可能になってしまった訳だ。この議論はニワトリと卵では無く、明らかにこっちが先の話しだ。
何故なら当のユニクロも、ゼンショーも、ニトリもバンバン利益を上げている。対応できない企業が業績を悪化させてリストラに走っている訳だ。単純に円高や新興国の発展で製造の原価が下がっただけでは無い。今や日本の飲食店の店員の多くは外国人アルバイトだ。サービスの価格もグローバル化によって下がっている。

しかし、これは何も解り易い飲食、小売、製造の話しだけでは無い。サービスや娯楽を含めた、ありとあらゆる物の価値が下がっている事にちゃんと気付いているだろうか?よく「若者の○○離れ」という話しを耳にするが、これも一つの事象だろう。例えば、ここ10年で「プロ野球」の商品価値は激減してしまった。小生が社会人に成りたての頃(約20年前)は「プロ野球」は、ビジネスのコミュニケーション上の一つの嗜みでもあった。優勝チームを占うのは当然として、誰が首位打者を取りそうだとか、ホームラン王は誰だとか、職場や客先で1日1回はそういう話題があり、その会話についていけない事はかなりデメリットですらあった。それが今では地上波の中継すら無くなってしまうのだから驚く限りだ。これ程急激に価値が低下しているにも関わらず、選手や職員達の雇用と年俸を維持しようとすれば、球団経営は赤字になるに決まっている。
「車離れ」であれば、買うお金が無くなっているという説明も立たなくは無いが、「プロ野球」をテレビで見るのにお金が掛る訳では無い。(ちなみに昔の若者の多くは、お金が無い中無理なローンを組んで車に乗っていた・・・)

この例で見るならば森永卓郎氏の様なスウィート左翼が、雇用と、年俸を守れば景気が良くなるなんて言っているが如何に無茶苦茶であるか解って頂けるだろう(彼の場合は、解っていて商売として主張している可能性は否定できないが)。もちろんマーケティング云々の次元の話しでも無い。
「プロ野球」の例で見るならば「新興国の台頭」は関係ない。いわれる様に趣味の多様化(インターネット、携帯)かもしれない。もちろん「プロ野球」だけでは無い。プロ野球というキラーコンテンツの価値が下がった事は、スポーツ新聞の記事の価値を下げてしまった。ネットの普及は紙媒体の価値を下げたと同時に。知的生産物の価値もさげた。

・(情報の)媒体としての価値
・(情報の)希少性の価値
・(情報の)娯楽性の価値

ここ10年で価値が下がった物を列挙して見ると良い。「車」なんてまだマシな事に気付くだろう。
例えば・・・

・マス媒体の宣伝効果
・新聞、本、雑誌
・ソフトウェアなどの知的生産物
・コンサルタントのフレームワークやメソッド(笑)
・丁寧に商品説明をしてくれる店員の価値。
・卸売
・金融機関などの窓口業務
・アイドルの水着姿
etc

今までであれば、物の価値が下がるのは、技術革新によって生産技術が向上したり、代替えとなる技術が生まれる。普及段階で参入プレーヤが増えて価格競争が始まる。などが主因として語られてきたが、単純に「グローバル化によって人件費が安くなったから」では説明できない物も多くその価値が下げている。解り易い「情報」だけでは無い。映像技術とネットの発展は全く関係なさそうな「移動する事の価値」も下げる可能性が充分にある。車や電車、飛行機の運賃、旅行などの価値も下げてしまう可能性がある。
その多くはインターネット普及に伴う「情報のインフレ」がもたらしていると言える。またネット(IT)の発展がグローバル化を加速されたという側面もあるし、その逆も然りだ。
音楽家は元々パトロンからお金を貰って演奏を披露していた。音楽を奏でたり、聞く事が大衆化するとそれが興業になり、やがてレコードが開発されると、その情報をコピーして売る事でお金を得る事が出来る様になった。それがネット(IT)社会になり・・・ビジネスモデルというものは、当り前だが、社会環境の変化や、技術の発展により変化するものなのである。今は情報そのものの価値が下った為、情報をコピーして売る事の価値も低くなった。その変わりに、情報を共有する場を提供する者、情報を整理して欲しい情報に導く者の価値が上がった。
ちなみに小生は何も、一時期流行った「ネット進化論-ネットとは何であるか?」的な議論をしたい訳では無い。そんな議論は情報を伝えるデバイスという意味では「伝書鳩とは何であるか」を喧々諤々議論しているのと同じだ。

物の価値を下げているのは「新興国の発展」「グローバル化」だけでは無いのである。
「物自体の価値」(組み立てや加工の価値)と「情報の価値」この両方が複雑に絡み合い急激に下がりつつあり、今まで市場を支配してきた商品、サービスの価値を下げているのである。あらゆる産業はこの波から逃れる事は出来ない。
物作りが新興国にシフトしただけではない。既存の産業が持っていた価値をGoogle,Amazon,Appleなどがどんどん吸い取ってシフトしていると言えば解るだろうか。これは「代替え」ではない。まさにパラダイムシフトが世界規模、全分野で起きているのが今だ。既存分野の持続的なイノベーションでは対応できない。重要な事は「どうシフト」するか?だ。
出版社、広告代理店やレコード会社が苦しんでいる事を「リーマンショック」のせいだ。とだけ捉えるのは明らかに間違った見方だ。こう言い方をすれば誰もが解る事なのに、知識人(笑)とか政治家の連中は日銀のせいだとかで議論してしまうらしい。

今までの考え方の延長ではとても対応出来ない。発展を拒否しないのであれば、経営、国の在り方から変えなければならないのは自明だ。既存の産業保護だけに奔走しいればが衰退して行く流れは止めようもなく、小手先の金融政策ではどうしようもない。日本の強みはあらゆる面で無効化してきており、日本という国が作り出す付加価値の総和が下がっている(労働生産性)。

新しいパラダイムに併せて構造を変えるしかないのだ。にも関わらず、既得権益を守りたくって仕方のない連中が「構造改革は格差社会を生んだ。」などと根拠の無い情緒論で煽り、改革を拒否してばら撒きを煽った。例えるなら世の中の変わる現実が直視できない老人達(自分達の昔ながらの価値感を否定できない人)が見る人が少なくなってしまった「プロ野球」(既存の産業)を税金で保護して選手の高額年俸(正社員)を維持。それに選手も甘えて、皆で無理矢理今の構造を維持しようとして、新しい物にはお金が回らない。こんな姿が日本の現状だ。
(あくまでも例えで、プロ野球結構好きです。あまり見なくなりましたが)

これでは逆に格差が生まれるに決まっている。「既得権益層」と。「そうで無い者」との格差。
昔のこのブログで民主党が政権を取れば格差が広がると書いたのは、民主党の支持母体が既得権益層ばかりだからだ。

産業の新陳代謝を活性化させる為に、思いきった規制緩和。税制改革(消費税への移行)法人税の引下げ。人材の流動性確保(解雇の緩和)。ベンチャーの育成(直接支援する様な方法を取るとロクな事にならないので間接的に)。そしてなにより教育改革。ハッキリ言ってこれしか手はあるまい。(金融機関の暴走に歯止めを掛ける様な規制は必要だが)

伴う痛みはどうすんのかって?・・・・本当に公正なルールの元での格差なら不満は少ないだろうし、つい100年も遡れば日本人は食って行く為に、南米でも北米でも移住した。国内に居ても牛丼は300円出せばお釣りが来る。

ちなみに、「デフレ Google」でググったら・・・デフレの原因はGoogle的な記事は1個も無かった(笑)

P.S.
一部の人に小沢一郎待望論みたいなものがある。彼にはリーダーシップと志があり、その志を達するには権力が必要で、ある程度非常の手段(金集め)もあって然るべき。それをマスコミが極悪人の様に書き立てたから無知な大衆は・・・というものである。
特に根拠がある話しでも無いので都市伝説と一緒で「はぁ左様ですか。」としか言いようが無いのだが、個人的な見解を言わせて貰うなら、これはマザーズに上場した多くのインチキベンチャーの論理と一緒だ。「上場という目的を達成するには、粉飾も厭わない。」「顧客が満足しなくても良い。」・・・・本当に志のある人間は、こういう論理では絶対に動かない。断言できる。綺麗事を言っている訳では無い。確かに本当に志がある人間は、自分が泥をかぶる事を厭わない。泥をかぶるというのは秘書を差し出す様な行為では無い。全くの逆だ。こういう人間の思考は会社を大きくする事(権力を得る事)が絶対の目的で、理念も理想も後付けに過ぎない。小沢一郎からは過去に本があるだけで、日本をどう変えたいかのメッセージは何も無い。その政策の是非で評価するのでは無く、剛腕でリーダシップがありそう。志がありそう。とイメージで語るのもまた踊らされているだけという事では無いのかナ?

2009年12月23日水曜日

歴史を直視できない日本人

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」先週で第4回「日清開戦」が終わった。

「坂の上の雲」は元々、原作者の司馬遼太郎はこの小説のドラマ化を嫌っていたと言われる。日清、日露といった周辺国との戦争が題材にされており、同時に当時(1972年初版)、まだ一般的には名将と思われていた乃木希典を徹底的に無能な軍人として描いたりと、ドラマにしてしまうともう小説の枠を超えて、色々な物議を呼んでしまう事を恐れたのであろう。
そうで無くても司馬遼太郎の小説は、あまりにも広く読まれた為「司馬史観」と評され、一部からは微に入り細に入り、ここが史実と異なると指摘を受けるハメとなった。様は左翼と右翼が、それぞれの立場で歴史を検証すると事実はこうであり、司馬の記述は間違いであるから価値が無い。と騒いだ訳だが、そもそも「歴史小説」なんで、目くじらを立てる様な問題でも無いのだが・・・

ただ、司馬遼太郎自身が、小説を各時に膨大な資料を読み、現地に足を運び、それらの情報を元に大局的な時代背景を描き、その時代背景の中で主人公の行動がどうであったか。どの様な思考原理で行動したか表現するという手法を取った為、読み手に対して、小説としてのエンターテイメントでは無く、その当時の歴史そのものが如何にも記述されている通りだったかの様な錯覚を産んでしまうのも確かだ。

さて、話しを戻してドラマ「坂の上の雲」だが、やっぱりNHKだけあって、予想どおりというか、わざわざ原作には全くない表現を加えてまで、色々と気を使っている様で・・・

大河ドラマなんかも全部そうなんだけど、こういう行為は単純にエンターテイメントとしての「面白さ」を削いでいるだけだ。ドキュメンタリー番組でものに、何にそんなに気を使うのか?(まあこの国の事情というやつがそうさせるのだろう。)


司馬遼太郎の作品で言えば、石田三成を主人公とした「関ヶ原」や、大坂の陣を描いた「城塞」では、徳川家康は悪逆非道の限りを尽す(笑)。それも解りやすい虐殺などでは無く、陰謀、策謀の限りを尽くして狡猾に大坂方を追い詰め陥れて行く。この辺はやっぱり作者が大阪生まれという事で贔屓を感じてしまうのだが、それでも、作者は歴史的意義として大坂方はその役目を終えるのは当然であり、徳川政権の必然性を認めている。諸大名が「利」を求めて家康に付くのも当り前だし、大坂方をドン・キホーテだという表現もしている。
このあたりが司馬の作品が合理主義的と言われる所以であり、小生も同氏の作品が好きな理由でもある。
その中でエンターテイメントとして、自分達なりの義の追求であったり、武士として死を如何に飾らん。という登場人物達を輝かせるには、徳川家康の陰謀をより強烈に表現する必要もあるだろう。

司馬遼太郎の小説の本質は、当たり前なんだが正しい歴史認識などでは無く、その時代背景から、歴史上の英雄達の行動を作者が独自に解釈し「男子の一生」として爽快に描いている点ではないだろうか。
体制を壊す側の「竜馬がいく」と反対側の「燃えよ剣」を同時期に書いていおり、「新選組が殺人集団だったから評価できない」とか、「河井継之助が結果として何も成さず、長岡の街を戦禍に陥れたから「峠」は駄目」とかそういう歴史的評価や、歴史観でついつい評価してしまいがちになるのだが、そういう事とは全く別次元の話しとして、読み終わった後に「男の生き方」として、大いに共感してしまう所こそ同氏の作品のエンターテイメントとしての本質があると思っている。(共感すると言うのは、小生の勝手な感想で、全く共感できなかったという軸で作品を評価するのであれば正しい)

歴史自体は偶然が重なった必然であって「もし武田信玄が後10年生きていたら」とか「織田信長が・・・」とか「ミッドウェー海戦で勝利していたら」なんて事は考えても仕方の無い事であり、逆に歴史的な英雄でも、生まれる場所や時代や立場が違えば、奸雄であり、単なる犯罪者であったかもしれない。名もない一市民だったかもしれない。
歴史的評価や歴史観というものは、それほど無意味なものである。あえて言わせてもらうなら、それらは歴史小説を読む際のスパイス位にしかならない。タバスコなり、胡椒なり、好きにすれば良い。
もし司馬の小説に書かれている徳川家康の行為がすべて事実だったとして、徳川家康は犯罪者である。と現代人が家康を裁く事はあまりに馬鹿げた行為だし、裁かない対象が家康であるなら異議を唱える人も居ないだろう。(旧日本軍や戦争指導者であれば、裁かない事に意義を唱える人が一杯いるという意味で)

例え話しとしてだが、「城塞」を徳川家康=周辺某国、豊臣大坂方=日本として、現在の外交に当て、現代小説として、読んでみても良いかも知れない。「微笑と恫喝」似ていなくも無いだろう(笑)。

日本の戦国時代は、あくまで同一民族どうしの闘争だから、論評するにも随分と気楽さはあるが、当時の日本人の世界観から見れば、世界=日本であり、世界=宇宙みたいなものであって、加賀の国、山城の国といった様に、戦国時代は各戦国大名という帝国主義者間の国家間侵略戦争であり、世界大戦だったと言ったって良いだろう。もちろん虐殺や、略奪も多く行われた。その観点でみれば、誰が悪で誰が善で、誰が誰に謝るべきなんて事は全く意味が無いし、ましてやお前は侵略した国の出身だから土下座しろとか、金払えと言われても困るだろう。オット、危険な方向に話しが行ってシマッタ。

しかし歴史認識を「自虐」「賛美」どちらの側にせよ、どちらの見方が正しいなんて論争は絶対の無意味であり、ましてや「正しい歴史認識」とやらを、子供や民衆に押し付ける事はとんでもなく下衆で、傲慢な行為だ。そんな事は、せいぜいエンターテイメントとして、「俺は家康派だ」「うんにゃ真田だ」といって酒の摘みに楽しめば良い次元の話しなのだ。

その中におても日本人と言うのは、過去一定レベルにおいて、歴史観や英雄賛美に留まらず歴史から人間や物事を捉える事をしてきた。その代表が「平家物語」であろう。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」

他国の軍記物にありがちな英雄伝でも、勧善懲悪でも無い価値観を伝えてきた。
その典型が「諸行無常」という概念である。

これは一定の価値観として常に日本人の心の中にあった様に思う。
例えば有名戦国武将の辞世の句の多くには、「夢」という言葉が出てくる。

上杉謙信:「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒」
豊臣秀吉:「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」
徳川家康:「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
(ちなみに、小生は句でいうならば秀吉が一番冴えていると思う。)

また、織田信長が好きだったと言われる能の「敦盛」も「平家物語」がベースとなっている。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

自身の英雄賛美でも、滅びの美学でも無く、一種虚無的な感覚として現世の事を「夢」(儚いもの)として捉える感覚である。
別に当人達は厭世的な世捨て人でも何でも無いのだが。

日本人が持っていたこの様な感性は、ロジカルシンキングの基本にも近い感覚で、物事を善悪、表裏、といった人間が作り出した観念論では無く、自分自身や、物語の被対象者から離れ第三者的な視点から、人間や、事、物、の変化(繁栄や衰退や滅亡、人の生死、もののあはれ、儚さ、可笑しさ、虚しさ)を捉えるという、ある種変わった感覚を持っていた。弁証法的と言うのかもしれないが、日本の場合、知識人の学問では無く、ある種の一般的な感覚として持っていた様に思われる。
この感覚というのは、自分達の歴史を美化する事とも、自虐として卑しめる事とも全く違う物である。
(江戸時代になって、体制を維持する為の方法論として儒教が取り入れられ、忠義や忠孝を強く説かれ勧善懲悪的なストーリが持て囃され、更にはそれが戦前まで、「天皇陛下バンザーイ!」的に国民鼓舞の為に悪用されてしまう事になった。)

いったい現在の日本人ときたらどうだろうか?
「歴史」という言葉が出て来た時点で、教科書どころか、エンターテイメントとしての小説、ドラマまでもが窮屈な史観とやらに囚われてしまっている。「反戦平和」とか「愛」とか、薄っぺらなヒューマニズムやイデオロギー、他国への遠慮の為に、本質的な面白さをすら見失い、少し別次元だが学問としての「歴史」からも本質を「学ぶ」事が出来なくなってしまっている。(各種御用学者さん達のお陰で?)

歴史というものは、その対象が自国のもであれ他国のものであれ「過去」を現代において裁く為にあるので無い(それは愚行、蛮行というものだ)。そこから学び、現在、そして将来に対して何をしうるのか?に、全ての価値がある。アフガン、イラク、ウィグル、チベット、テロ、核兵器、独裁、搾取、不況、差別、環境、etc
日本人が本当に歴史を学ぶのであれば、なぜ今この瞬間も行われている蛮行を止める手立てを考えないのか?(中国人や米国人を憎めという意味では断じて無い)

くだらない「史観論」に捉われ、思考停止に陥る位なら、平家物語的なエンターテイメントの方が遥かに人々に役立つもので価値が高いのでは無いのか?とつくづく思う。

2009年10月23日金曜日

誰が為に金は撒かれる

前回のちょっと補足。

小生、民主党は確かに嫌い。特に幹部連中に関してはもう生理的といって良い位嫌いだ。だからと言って自民党が好きという訳ではない。

ただ、このブログで政治的な話題に触れる時、一貫してるのは民主が、自民が、では無く、国民自身がいい加減意識を変えろという事。

戦後日本は、奇跡的(良い意味で)な「民主的な共産主義」で成長してきた。
一億総中流と言われ、貧富の差が少なく、社会保障が充実し、税金による富の再分配が機能し誰もが、真面目に働けば周りと同じ様な生活が出来る。小生が考えても理想的な国家だと思う。

しかし、バブル崩壊を機に、このシステムを支えていた前提が色々な面で崩れ去った。従来のシステムが通用しなくなった。

それから、ダラダラと「失われた10年」を過ごした後に、「市場原理主義」の導入、
「官から民へ」を打ち出したのが小泉-竹中路線で推進した「痛みを伴う構造改革」だった。
当初人々はこれに熱狂した。IPOブームが起き、時代の仇花といえる「ホリエモン」が脚光を浴びた。
そして時は立ち、リーマンショックがこの路線の熱を完全に冷ましてたのと同時に、一筋の光明を見出したつもりが、それすらも失って、八方塞がりになってしまった。

小生は今の民主党の人気には「民主的な共産主義国家」への回帰への想いが、その根底にある様に思えてならない。
即ち、それはかつての自民党政治へのノスタルジーといってもよいのではないか?

実際に民主党を支持している人は「そんな馬鹿な」と叫ぶだろうが、しかし、では現実に「暮らしが良くならない原因は国(自民党)が悪いから」と言うのは何故か。
裏を返せば「生活は国が支えてくれるもの、仕事は国が作ってくれるもの」=「民主的な共産主義」ではないのか?飛躍しすぎだろうか?
都市部では「箱モノ」中心は限界が見えているので、自民では無く民主。ただそれはイメージで、地方ではむしろ「箱モノ」をやらなくなったから自民に入れる理由が無くなり民主。
自民はダブルパンチを食らった訳だが、箱モノを経由してバラ撒くか、直接バラ撒くかの違いであって、穿った見方をすれば、票の集め易い「特定の人間」により直接的にバラ撒ける様にしたという見方もできる。
郵政の動き見れば、あながち間違った見方とも言えないだろう。
どの道、国民が新しい道を選択したなんて感覚は、少なくとも小生は持っていないし、そこには新しい国家としての成長戦略なんて何一つ見いだせない。
直接バラ撒きで内需を喚起するというが、間接バラ撒きで内需が喚起しないわけでもあるまいに。

話しは戻るが、「民主的な共産主義国家」は決して「助け合い」「共生」の精神を育んできた訳では無い。
その末期のバブルの馬鹿騒ぎを見れば良く解るだろう。
むしろ「利己的な個人主義」を育んできたと表現した方が相応しい。

学校-会社-老後と全て決められたレールを用意して貰う事が当り前過ぎて、自立して生きて行く事が出来ない。
もしレールが外されていようものなら、怒る。だだをこねる。他人が悪いと叫ぶ。拗ねる。
「大企業が悪い」「経営者が悪い」「政治が悪い」「官僚が悪い」
そして必ず、総論賛成各論反対。
公共事業を減らせと言いながら、自分に関わる事業が削減になれば猛烈に反対する。
福祉を充実させよと言いながら、自分が増税になれば「姥捨て山法案」・・・
失業すれば「仕事を紹介しろ」。ならまだましもで「生活を保障しろ」と言う。
こんな話は枚挙にいとまがない。少しでも自分に火の粉が掛れば「おかしい」「理解できない」「反対反対」と喚き叫ぶ。この傾向は民主党政権になっても全く変わっていない。

世代別の政党支持率を見て見ればその実態が良く解る。
色々の出自のデータがあるが、どの調査でも民主党への支持は高齢世代が高く、若年層ほど低くなっている。
実際に「民主的な共産主義国家」を謳歌し「逃げ切った」若しくは「逃げ切り直前」世代ほど高く、実際に格差問題などに苦しんでいる世代ほど支持率が低いという事だ。
これは、単に、不景気に見られるナショナリズムの台頭という表現で片付く話しでは無い。
(例えば右寄りの集会に何十万人も若者が集まって来た。というならそう言えるだろうが)

小生はマスコミvsネットに見られるイデオロギー対決的な要素が民主、自民の差になっている事は殆どないと考えている。それらは寧ろ圧倒的マイノリティーで、殆どの国民は実はあまりその点には関心が無い。
口先では「800兆も借金を作って、次世代はどうしていくのだ」で心の中では「目先の生活をもっと良くしろ」これだけだと言っても良い。
本音では、自分の暮らしさえ上向いて自分の子供さえ豊かなら、他人や未来の社会なんて本音ではどうでも良いのではなのか!?そんな幼稚な精神が煤けて見える。

「共生」を誤解してはいけない。利己主義は他人に依存していなければ生きていけない人間の事だ。他人は自分様を助ける存在でなければならないと考える人間の事だ。自分だけはいつも他人が支えてくれる。と考えるのは「共生」ではない。

もちろん人間は一人では生きていけない。だからこそ、まず自分なのだ。自分にしっかりと自立した精神を宿して初めて、他人を助ける事ができる。それぞれに自立した人間が、他人の自立を助ける。
自立した精神を持っている人は、助けられた時に心から感謝する事ができる。利己主義者は、助けられた時に当然だと考える。

会社に、学校に、他人から与えられた環境でしか生きていけない軟弱な精神の大人の体をした子供達。
今この国に必要なのは「個人への回帰」、「個人の自立」であって、更には、それがあって初めて国家としての自立も成り立つものだと思う。

弱者切り捨てでも、自己責任論でもない。自立した個人が周りの自立を支援する。
低所得者も、老人も、母子家庭も、出来うる範囲での「自立」があって、初めて幸せに繋がる。
自分の意思と、自分の考えで生活をしなければ、自分が満足する事なんてできない。
「弱者」扱いこそ「差別」ではないのか。逆差別、弱者貴族を作ってはならない。

中学卒業してまず社会に出て働いて、結婚して、子供を作り、30歳で高校に入ってその後、アルバイトで過ごし、40歳から大学に行く。その後サラリーマンとして働き、55歳で留学。65歳から作家を目指す。

こんな人生だって全然良いじゃないか。もっと人生は自由であるべきだ。そして自由も自立からしか生まれない。

元々「騙すより騙されろ」と子供に教えてきた日本人。小生は「強欲市場原理主義」では無く、「道徳的市場原理主義」こそがこれからの日本の道だと思う。自立した個人が、公平中立なルールと高い道徳心を持って競争し、国力を高めていく。そして自立した大人が、子供を自立させ、周囲を支える。そんな社会こそが目指すべきで姿ではないのかと思う。

「道徳的市場原理主義」なんて、欧米中では実現したくても出来ないだろう。

小生は逃げ切り、逃げ切り直前世代では無く、初めからレールが外されてしまっている。今の20代、10代、と言った世代が、いつか新しいムーブメントを巻き起こしてくれるのではないかと期待している。
そして、それは、ホリエモンの様な形では無く、もっと社会性が高く、道徳心に富んだものになるだろう。

40近くなった小生は、その土壌をしっかりと築き上げて行きたいと愚考している。

最後に、
民主党が今のまま突き進めば格差はますます広がっていくだろう。
これは小生の予言としてとどめておく。
しかし、今のまま、また政権が変わっても何も期待が出来ない。
まず、変わらなければ行けないのは我々自身であり、所詮政治はそれを映す鏡でしかないのだから。

2009年10月21日水曜日

目的と手段と実行プロセスの狭間で愛を叫ぶ

色々問題はありながらも相変わらず、民主党は高支持率をキープしている様で・・・

まあ、国民が長い事変わらなかった体制、「自民-官僚支配」から新しい道を選択した訳だから細かい事は気にせず、もう少し長い目で見守りましょう。

こんな所だろうか?
自民党政権時代は癒着、利権に支えられ、借金は800兆にも膨れ上がらせた癖に、国民の暮らしは一向に良くならない。

ああ、確かにお陰で小生の暮らし向きも傾く一方だ。


しかし、まあ、なんと言うか相変わらず「情緒」-Emotionで動く国民だことで。

上の様な話しには、何の「論理性」も「合理性」も無い。
あるのは「情緒」と「感情」だけだ。考えても見よ「自民-官僚支配」の具体的に「何処がどう悪かったのか」の検証なんて全く無いのだ。あるのは「天下り」「役人天国」「埋蔵金」「利権体質」とかそんな感情を煽る様な言葉ばかりで、なんの検証も無い。
「天下り」や「特殊法人」を全て無くせば、税金が余り、国民の懐が潤うとでも言うのか?

「官僚主導」では無く「国民主導(国民が選んだ政治家が政策を決定する)」そりゃ確かにそうなんだが、そんな事は「官僚」より「政治家」がアホだったからの一言で片づけられれてしまう。
別に国家が発展していくなら、「アホな政治家主導」より「官僚主導」の方が遥かにマシという意味で。

確かに今の日本の現状(結果)はそれまでのプロセス(官僚主導)に問題があったから。ここに踏み込まないと何も変わらないという理論はある。
しかし、何よりも重要な事は「何を目指しているのか?」の目的であって、その為にプロセスは最適化されるべきものなのである。
どうやってという「手段」では無く、何の為にの「目的」こそが本来問われるべきで、
その肝心な「目的」の方はメチャクチャでも、「細かい事はいいじゃないか。」で、
手段の方に「今までとは違うっ!」て事で、ヤンヤヤンヤの喝采を送るなんてアホ過ぎて言葉も出ない。

あくまで「国民が初めて政権を選択した」という事象が重要なのか。

国民はずっと自民党を選択して来た。800兆のお金は間違いなく国民の誰かが手にして来たお金だ。
(間接的には国民全員が手にして来た)
そのお金を目当てに、自民党に投票してきた人々が居るという事だ。
独裁政権が倒れて、初めて選挙によって民主的な政権が生まれた訳では無い。
民主的な選挙によって、国民自身がずっと「自民党」を選択して来たのだ。
政治家も官僚も国民もなんと無く慣れ合って、後世にツケを回して来たのだ。

しかるに、「政権が変わった事が重要」などとは、これ程馬鹿げた話しは無い。

そういえば、小生、サラリーマン時代会社の中でも散々似た様な状況を味わった。
会社の状況はどんどん悪くなっているのに「皆頑張っているのだから」「評論している時間があれば目の前の仕事をもっと一生懸命にやれ」「会社は自己実現の場だから嫌ならとっとと辞めろ」こんな言葉が会社を支配していた。
次期主力商品の開発に失敗しても、変なコンサルにお金を騙し取られても、誰も何も責任を取らない。
組織として「何故失敗したのか」を論理的に考え、同じ過ちを繰り返さない様にという反省もない。
そう「皆頑張っているのだから・・・」で全部終わってしまうのだ。

こんな発言には論理性なんてひとかけらも無い。
会社はみるみる悪くなっているのだよ。
しかも、恐ろしい事に、客観的に見れば「皆頑張っているのだから」と声高に叫ぶ連中(幹部連中)ほど、実は全く仕事していない。そして数字が上がらない末端の営業マンなどがクビを切られて行く。

「細かい事は気にせず、もう少し長い目で・・・」
その結果、10年後、20年後どうなっている?日本は良くなっているのか?
国民主導というならば逆であるべきだ。
細かい政策の一個一個まで、正しい状況を伝え、国民がチェックしていかなければ国民主導とは言えない。
政治家には「責任」をしっかり持ってもらう必要がある。
何しろ国を動かす「権限」を持っているのだから。

小学校の学級委員長を選んでいる訳では無いのだ。子供達の未来が掛っているのだ。

そういゃあ、最近ビジネスの世界でも「プロセス」や「手段」「方法論」ばかりが着目されていて、肝心な目的は?が置いていかれた感が強い。
例えばITシステムの導入なんて典型的だろう。「ERPを導入した(する)」みたいな「手段」ばかりが話の中心で、肝心な「何の為に?」が良く解らない。

Q:「なんでERPを導入するの?」
A:「業務効率化の為だよ」と言われる。
Q:「何の為に業務効率化するの?」と聞けば、
A:「業務プロセスを刷新して、コスト削減と競争力をアップする為」
Q:「なんで?」
A:「そりゃ、利益を上げる為に決まってるだろ!」と怒鳴られる。(笑)
で:「ERP導入すれば、利益ってあがるの?むしろ随分キャッシュアウトが発生し利益を圧迫しますが・・・」
A:「そりゃ・・・・多分・・・長い目で見れば・・・」自信なし(笑)

こういう笑話しが、結構存在する。

目的の為には手段を選ばず。が良いとは言わない。でも目的もないのに手段に踊らされる程ばかな話しはない。○○式メソッドとか、○○○システムなんて全部手段。


あっ、そう言えば、
鳩山政権の目的は「東アジア共同体の実現」、「温室効果ガス25%削減」と「友愛社会の実現」だっけ?(違ったかな?(笑))
国民はそれを目指して民主党に投票したのか・・・結構、結構、小生の疑問は一件落着。

でも、どれも期間的に、現政権内での実現は難しそうだぞ。という事は、過程(プロセス)として、妙な法案ばかりが出来て、結果どうなるかは、未来のお楽しみという事か?

まあ、それでもあたたく見守りましょうよ。
↑こう、言っておけば村八分にはされないらしいので・・・・


※厳しく指摘する方が重要だと思うんだけどな~ これは小生の個人的感情か!(笑)

2009年7月24日金曜日

遠き山に日は落ちて

「遠き山に日は落ちて」

何故、こんなブログのタイトルにしたのか?小生自身良く解らない。
「遠き山に日は落ちて」というのはドボルザークの交響曲9番「新世界より」に堀内敬三が歌詞を付けたものである。
一つ思い出されるのは、小学校5年生の時、小生は大阪の豊中の小学校に通っており、林間学校で、兵庫県の鉢伏山(おそらく)に登山をして、その下山途中で仲間達と何故かこの曲を、大声で歌った記憶である。

小生の父親は転勤族で、小学校は3回変わっている。この為もあってか、この時の親友の顔も名前もぼんやりとして、はっきりと思い出す事ができないのに、とにかく最高に楽しかった思い出でのひとコマである。林間学校では多分、キャンプファイヤーや、その他もろもろの行事があって、それぞれに楽しかったのだと思うのだが、何故か、この下山途中に仲間達と「遠き山に日は落ちて」を、何の脈略があってか、歌った事だけがピンポイントで、良く思い出されるのである。

時代は移って、小生が大学生の頃というのは、日本はバブルの弾ける手間の絶頂期で、名実ともに「Japan as No1」だった。
1989年に三菱地所が、アメリカのロックフェラーセンタービルを買収して話題と物議を呼んだ時期である。
ゼミでのテーマも「日米貿易摩擦」を取り上げており、小生は「日本人は働き過ぎだ」その原因は「努力する事に対する価値基準が異常なまでに高いからだ」「死ぬまで働き続ける(過労死)」とか「故障のリスクを無視しても、投げ続ける高校球児なんて異常すぎる。」と言って、先輩からこっぴどく叱られた記憶がある。

右肩上がりの高度成長期の最後の浮かれたお祭りに、幼少期、思春期を過ごし、社会に出るタイミングでバブルが弾け、その後は、なんとなく暗いムードが世の中を支配している。

しかし、実際にこの20年の間にも、世の中は随分と豊かになった。まだまだクーラーは高級品だったし、携帯電話なんてないし、首都圏では路線も随分と増えた。(そういえばいつの間にか扇風機が回っている車両はすっかり無くなった。)お風呂は手動が主流だったし、テレビはブラウン管。パソコンやネットは一部のマニアや研究者のモノで一般には普及していない。
今は、大不況と言われているが、街に出れば活気に溢れている。そうそう犯罪に会う事も無いし、食べ物も美味しいし、相対的には悪くなっているのかも知れないが、決して「羅生門」で描かれている様な状態では無い。

にも関わらず、この拭いきれない不安と暗さはどうであろうか?

日本は来年中にはGDPで中国に抜かれ、世界3位になるとか、一人あたりのGDPでは2008年で23位まで落ちたとか、日本の国債と地方債の発行額の累計は800兆を超えているとか、犯罪発生率が、失業率が、超高齢化社会を迎えるとか、年金や保険が破綻に向かっているとか・・・

手にした豊かさや便利さとは裏腹に、日が遠き山に沈もうとしている現実の中で、その戸惑いを他人に向けて、私は不幸で、誰かが上手い事やっている。自分こそが被害者だと目くじらを立てる浅ましさには同意できない。

世の中は理不尽だし、不合理で非条理だ。そんな中で生きる為に何を選択するのか?生きる為に盗賊となる事は罪なのか?もし「羅生門」に登場する老婆が、捨てられた死体を憐れみ弔っていたなら、主人公の下人はその後どうしであろうか?
善か悪かは概念論でここでは意味がないだろう。
確かに、生きる為に何をするのか?真剣に考えざる負えない状況では、何の為に生きるのか?の問いは貴族の遊びでしか無いだろう。

貴方が兵士として戦争に出る。貴方は大砲を引っ張る敵兵を見つける。敵兵はまだ貴方には気が付いていない。敵兵は如何にも優しそうな好青年だ。貴方がここで銃の引き金を引きこの敵兵を殺さなければ、貴方は当然、貴方の仲間が居る部隊も全滅してしまうかもしれない。
戦争という極限状況で、事の善悪を説く事は何とも薄っぺらい。

物事は常に表裏一体であり、善の概念があるから、悪の概念が成り立つ。
したがって、悪が悪を生むように、もし、世の中の善が欺瞞に満ちていたとしても、人間の作る社会が善として、生きる道を照らしていたならば、人の意思は、また次の意思を生む。如何にそれが概念の中にあるモノで、その事自体に意味は無くてもそれでよい。

小生にも4歳の子供が居る。子供を持ってつくづくと思う。
いくら遺産を残せても、社会が「羅生門」であれば、やはり幸せである筈はない。
少しでも良い社会を築く為に働く事こそが大人の責務だと。
どんなに小さく、結果、何の意味も持たなかったとしても自身はその為に働こう。
そして、子供達が社会に出る時に、同じ様に思ってくれる事で、世の中は循環し、社会に真の持続性がもたらされると信じて。

2009年2月3日火曜日

ブログ始め

本日、ブログなるもの初めてみる。

しかし、どうも世の中がネット、ネットと騒がれていると、どうしても背をそむけてみたくなる。

小生は巨人ファンだ。しかし、最近は選手の名前もロクに知らない。ファンとは言えないかもしれないが、まあそれでも巨人が好きだ。

と、

こんなことを不特定多数の世界に発信して何が得られるのだろうか??たぶん、この広い世の中で、この文章を目にする人は7人位で、そのうち2人位は文章まで読むかも知れない。そう考えると、なる程、確かに少し寂しい気がする。
もうちょっと見て欲しいな。と思い、内容に凝ったり、リンクを張ったりし始める。段々と読者が増え始め、コメントなんかも付き始める。更新のタイミングや内容を常に考える様になり、私の生活の一部になる。さらに進むと、メールが来たりしてリアルの世界で友達が増えたり、仕事の仲間が増えたり、逆に読者が減り始めてくると、なぜか焦りを感じ始めたりして・・・

で、「それって楽しいのか?」・・・

まあ、それはもちろん人それぞれの価値観だろう。否定はしない。
実は、ブログを初めて見た代わりと云う分けでは無いがタバコを止めた。愛煙歴約20年。絶対に止める事は無いと思って居たが、年末から一か月吸っていない。
なぜ、このタミングで辞めたのか?

健康を考えて?家族から言われて?世間様の目が痛くなってきたから?

結論からいえば経済的事情というのが一番正しい。しかし、おそらく、タバコが一箱千円になり、世の中から喫煙所が殆ど無くなってしまう様な状態になってしまったら、逆に小生はタバコを吸い続ける羽目になるだろう。。だって、禁煙するのも喫煙するのも自分の為?なのだから、人(々)から、無理やり外堀を埋められる様な事をされるのであれば、愛煙家としての意地を通さない訳にはいかない。

しかし一箱千円は強烈だ。きっと遠くない将来そうなるだろう。。。
一日一箱で、月3万円。年36万円。。。。

でも外堀を埋められたからからと言って降伏する様な男は嫌だ。で、あるならば今、経済的にも環境的にも喫煙が許される今辞めるしかない。

全くつまらない、どうしようもない理由。滑稽。自己愛。世間からは、全く理解されえない。だから、巨人ファン。と、いう訳でこのタイミングでブログを書いて見る。そして、再びタバコを吸わない事を考えて。