2009年7月24日金曜日

遠き山に日は落ちて

「遠き山に日は落ちて」

何故、こんなブログのタイトルにしたのか?小生自身良く解らない。
「遠き山に日は落ちて」というのはドボルザークの交響曲9番「新世界より」に堀内敬三が歌詞を付けたものである。
一つ思い出されるのは、小学校5年生の時、小生は大阪の豊中の小学校に通っており、林間学校で、兵庫県の鉢伏山(おそらく)に登山をして、その下山途中で仲間達と何故かこの曲を、大声で歌った記憶である。

小生の父親は転勤族で、小学校は3回変わっている。この為もあってか、この時の親友の顔も名前もぼんやりとして、はっきりと思い出す事ができないのに、とにかく最高に楽しかった思い出でのひとコマである。林間学校では多分、キャンプファイヤーや、その他もろもろの行事があって、それぞれに楽しかったのだと思うのだが、何故か、この下山途中に仲間達と「遠き山に日は落ちて」を、何の脈略があってか、歌った事だけがピンポイントで、良く思い出されるのである。

時代は移って、小生が大学生の頃というのは、日本はバブルの弾ける手間の絶頂期で、名実ともに「Japan as No1」だった。
1989年に三菱地所が、アメリカのロックフェラーセンタービルを買収して話題と物議を呼んだ時期である。
ゼミでのテーマも「日米貿易摩擦」を取り上げており、小生は「日本人は働き過ぎだ」その原因は「努力する事に対する価値基準が異常なまでに高いからだ」「死ぬまで働き続ける(過労死)」とか「故障のリスクを無視しても、投げ続ける高校球児なんて異常すぎる。」と言って、先輩からこっぴどく叱られた記憶がある。

右肩上がりの高度成長期の最後の浮かれたお祭りに、幼少期、思春期を過ごし、社会に出るタイミングでバブルが弾け、その後は、なんとなく暗いムードが世の中を支配している。

しかし、実際にこの20年の間にも、世の中は随分と豊かになった。まだまだクーラーは高級品だったし、携帯電話なんてないし、首都圏では路線も随分と増えた。(そういえばいつの間にか扇風機が回っている車両はすっかり無くなった。)お風呂は手動が主流だったし、テレビはブラウン管。パソコンやネットは一部のマニアや研究者のモノで一般には普及していない。
今は、大不況と言われているが、街に出れば活気に溢れている。そうそう犯罪に会う事も無いし、食べ物も美味しいし、相対的には悪くなっているのかも知れないが、決して「羅生門」で描かれている様な状態では無い。

にも関わらず、この拭いきれない不安と暗さはどうであろうか?

日本は来年中にはGDPで中国に抜かれ、世界3位になるとか、一人あたりのGDPでは2008年で23位まで落ちたとか、日本の国債と地方債の発行額の累計は800兆を超えているとか、犯罪発生率が、失業率が、超高齢化社会を迎えるとか、年金や保険が破綻に向かっているとか・・・

手にした豊かさや便利さとは裏腹に、日が遠き山に沈もうとしている現実の中で、その戸惑いを他人に向けて、私は不幸で、誰かが上手い事やっている。自分こそが被害者だと目くじらを立てる浅ましさには同意できない。

世の中は理不尽だし、不合理で非条理だ。そんな中で生きる為に何を選択するのか?生きる為に盗賊となる事は罪なのか?もし「羅生門」に登場する老婆が、捨てられた死体を憐れみ弔っていたなら、主人公の下人はその後どうしであろうか?
善か悪かは概念論でここでは意味がないだろう。
確かに、生きる為に何をするのか?真剣に考えざる負えない状況では、何の為に生きるのか?の問いは貴族の遊びでしか無いだろう。

貴方が兵士として戦争に出る。貴方は大砲を引っ張る敵兵を見つける。敵兵はまだ貴方には気が付いていない。敵兵は如何にも優しそうな好青年だ。貴方がここで銃の引き金を引きこの敵兵を殺さなければ、貴方は当然、貴方の仲間が居る部隊も全滅してしまうかもしれない。
戦争という極限状況で、事の善悪を説く事は何とも薄っぺらい。

物事は常に表裏一体であり、善の概念があるから、悪の概念が成り立つ。
したがって、悪が悪を生むように、もし、世の中の善が欺瞞に満ちていたとしても、人間の作る社会が善として、生きる道を照らしていたならば、人の意思は、また次の意思を生む。如何にそれが概念の中にあるモノで、その事自体に意味は無くてもそれでよい。

小生にも4歳の子供が居る。子供を持ってつくづくと思う。
いくら遺産を残せても、社会が「羅生門」であれば、やはり幸せである筈はない。
少しでも良い社会を築く為に働く事こそが大人の責務だと。
どんなに小さく、結果、何の意味も持たなかったとしても自身はその為に働こう。
そして、子供達が社会に出る時に、同じ様に思ってくれる事で、世の中は循環し、社会に真の持続性がもたらされると信じて。

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