2009年6月25日木曜日

三河の魂、千まで。

6月23日に兼ねてから言われていた様に、トヨタ自動車の社長に豊田章男氏が就任した。
これは昨年末経済危機の後の方針では無く、2007年位にはもう次期社長は章男氏であると言われていた。
当時、小生はサラリーマンで名古屋に赴任していた為、この辺の情報はかなり敏感だった。やっぱり東京で仕事している時より遥かに意識する。

その当時、親しかった外資系コンサルファームの名古屋事務所のマネージャとお酒を飲みながらこんな会話をした記憶がある。
コンサルW氏としよう。専門はMA。元々例の米不正会計事件で無くなったファームの出身で、事件後、トヨタ系の商社に勤めたが、耐えきれずにまたコンサルに戻ったというキャリアという方だ。また奥さんはご両親ともに三河出身で、トヨタを辞めるなんてあり得ない。理解不能と言われ随分苦労したそうだ(笑)

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W氏:「あのトヨタですら、創業一族が経営に戻ってくるなんて全くこの地域の経営というのはどこまで遅れているのやら」
「やっぱり竹千代(徳川家康)なのかな?」
小生:「はは、確かに三河武士団なイメージあるね。忠誠心に厚いし、吝嗇(ケチ)だし」

ちなみに、愛知県は三英傑の出身地な訳だが、名古屋では、尾張出身の信長、秀吉より、三河出身の家康の方が人気がある模様。尾張徳川家の影響かもしれないが、不思議なものだ。

小生:「でもね。やっぱり最近思うのはこの地域の経営は、米国流の真似ごとは絶対しちゃいけないと思う」

W氏:「そう言えば○○○○社(三河地方の超伝統食品メーカ)は、カンパニー制を導入したけど全く機能していない見たい」

小生:「そりゃ、そうだ。というかギャグ?」

W氏:「いゃあ、□□□□(別の外資系コンサル)と組んで、かなり本気で取り組んだ見たいなんだけど」

小生:「でも、基本食品しかやってないじゃん。しかも今でもトップは歴代のオーナ社長でしょ?」

W氏:「規模が大きくなってきて意思決定の速さや、組織の自立性を高めたかったんだと思うけど、様はミーハなんですよ」

カンパニー制というのはソニーが始めたので、米流でもなんでもないが、SBU制も含め日本では多いに流行った。しかし、現時点では殆どが見直されている。NECも今年見直すそうだ。

小生「無理、無理。オーナ企業の良い処は、長期視点でじっくり腰を据えた経営ができる事でしょ。だから従業員も滅私奉公すれば、苦しくても最終的にはハッピーになれるんじゃないかと思って働く訳。社内カンパニーは全くの逆。カンパニーの社長は、自身で事業体の最終、最高責任者としてバンバン意思決定して自立して結果を出さなくちゃちゃならない。結果が出なければ責任を取らなくてはいけない。これはカンパニーの従業員も一緒。「滅私奉公」なんて感覚じゃない。しかもオーナがすぐ上にいて、自立した発想で事業を推進していける訳がない。」

W氏:「そう、だからこそ御社は意思決定のスピードが遅く、変化に対応できていない。カンパニー制を導入し・・・と、コンサル屋にころっと騙される。」

小生:「そうやって、オーナ企業と、カンパニー制、両方の良さを見事に打ち消した会社が出来る訳だ。でもそういう意味ではトヨタはぶれてないよね」

W氏:「ぶれてない。竹千代(笑)」

小生:「でも私は竹千代というより、トヨタの場合、天皇制に近いんじゃないかと思う」

W氏:「天皇制!?」

小生:「トヨタはもうオーナ企業じゃないでしょ。組織が何かしらの意思決定をする時に何を判断基準にするのか?短期の利益なのか、長期の成長なのか?特定個人の意思なのか?人と人で意思が異なる場合、何をもってジャッジするのか?」
「これは企業に関わらず、Aという人の意見と、Bという人の意見が割れた時、絶対の正しさなんて無いわけ。ジャッジできるのは
「神様」だけ。他の国は多くの部分で「神様」を「宗教観」に落として「正しさ」の判断をする事が多い。」

「実際は立場、肩書きとか、声の大きさ、多数決とか、そういった要素で「正しさ」が判断されるのだけど、本当にその判断が正しいかなんて事は誰にも解らない。酷い事を言ってしまえば「人を殺すのは良くない」というのも一つの価値観でしかない。

W氏:「確かに、解った気がする」

小生:「独裁でなければ組織においての判断はブレて当然。日本の企業は、米国の様に、短期利益や株主利益という絶対の価値観を持っていない。そういう意味では遥かに多様な価値観を持っていると思う。だからこそよりぶれやすい。これは競争において本質的な弱さを持っていると思う。」

W氏:「天皇が政治の中心にいた事は少ないけど、時の権力者は判断の度にわざわざ勅命を貰う」
「その事で、その判断の正当性を得る。逆に国事を纏める為にはそれが必要だった」

小生:「その事を、自分たち自身が理解している処にトヨタの強さを感じるんだ。それは絶対君主の様に単純なものじゃない。しかしトヨタはでかくなりすぎた。その事に危機感を抱いているからこそ、あえて大政奉還をするんだと思う」

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確か、こんな会話だったと思う。今とは違い、まだトヨタが絶好調の時だ。確かにフォードも創業家の影響力が強いが、フォードの場合はフォード家が現時点でも株式の40%以上を持っている点で大きく異なる。



トヨタには色々な批判がある。QCサークルの労災裁判は有名だ。(QCサークルなどで月/100時間を超える残業で過労死したが、当初QCサークルは業務では無いとの認識から労災認定が下りなかった)もちろんQCサークルが自主的な活動で、業務では無いなどというのは時代錯誤も甚だしいと思う。その一方、過労死された方の父親もトヨタマンで「サークルは業務じゃない。裁判なんて起こすべきではない」と言っていた事は殆ど伝わっていない。息子を失って尚である。
この父親を単純に愚かと表現する気持ちにはなれない。もちろんこの事件に関して「トヨタ」や「労働基準局」の肩を持つ気は更々ないが、この父親の気持ちこそが、「トヨタ」が内面に秘める強さの秘密でもあろう。いや、かつての日本企業の強さの根幹にこの様な「気持ち」があった様に思える。

トヨタは2兆円の利益を出した昨年08年度の役員賞与が28人の取締役の総額が約10億。GMは赤字でも会長だけで15億。
単純比較はできないが、従業員の場合でも、トヨタに比べ、GMは15%~20%高額。危機的な状況でも再建が進まなかった理由として労働組合が強すぎる点が挙げられている。

経営者も従業員もトヨタマンである事の「義務」を第一義に行動し世界一となったトヨタ。経営者も従業員も、自身の得るべき「権利」を第一義に行動し、破綻したGM。

前者も後者も、どちらのままでも居られなくなった事は言うまでもない。

今まではトヨタは正社員の雇用だけは守り通してきた。なんだかんだ言って下請けも守ってきた。
しかし、いよいよ海外では正社員のリストラを予定している様だ。

ちなみに、日産はゴーンさんが来た時点で万単位のリストラを行い、系列の50%を切り捨てた。
その意味で小生はトヨタこそが「超日本型経営」であり、悪く表現するならば「日本型経営の成れの果て」だと思う。




トヨタに関する書籍は大きく二つに分かれる。徹底したトヨタ流の賛美か、トヨタこそが悪の帝国そのものであるという、ステレオタイプ過ぎる物の見方だ。

後者には些か、共産主義を夢見る古典的な左翼の香りがする。搾取する者と、搾取される者という対立軸で表現するには日産では無く、日本一の大企業で、世界一の自動車メーカであるトヨタを、シンボリックな存在として扱うにはうってつけなのであろう。
しかし、小生は逆に、少なくとも「トヨタ王国」こそが、例の将軍様の国よりよほど理想的な共産主義を実現してきた。と表現する方が本質的な気がしている。少なくとも他の大企業に比べると。

「トヨタ流」の賛美もビジネス書として読むと、実はかなり違和感を感じる。トヨタの強さの秘密は、JITに代表されるトヨタ流の生産方式にあり、如何に無駄なく、徹底して効率的に「モノ」を作る体制を取っているか。という趣旨を常にその論拠としているのだが、小生の勝手な知見ではトヨタの強さは本質は、その「販売力」にこそあると思っている。
トヨタはまぎれも無く、世界一車を「売っている」会社なのだ。効率的に品質の良い車を「作る」事が世界一の秘訣だとするならば、消費者としてみた時に他の日本車だってもっと売れて良いはずだ。


トヨタ流の本質は「もの作り」では無く「もの売り」にある。「如何に効率的に車を売るか」がJITにおいても最上流にあるのでは無いのか?だからこそ突然外部要因で「売れなく」なった時に、他よりもダメージを被った。効率良く作る為の仕組みであれば、生産調整をするだけで良いから流血はもっと少なくて済んだ筈だ。


松下(現パナソニック)においても、成長の過程において圧倒的な販売力こそがその原動力だった筈だ。「マネシタ電機」と揶揄された様に、決してイノベーティブな「もの作り企業」では無かった筈だ。

日本経済の強さの秘訣は「もの作り」にあるとして保護政策を取るのは、少々幼稚で馬鹿げていると思うのは小生だけだろうか?

因みに、小生がトヨタに就職していたら、どうだったか?恐らく半年と持たないだろうな・・・
それでもやっぱり資本主義の方が好きだから(強欲じゃない範囲で)
ただ、直接的にはトヨタと関係の無い小生にとっては、トヨタには、やっぱり一杯稼いで貰って税金を一杯納めてくれた方が理想的だ。

新社長期待しております。

2009年6月18日木曜日

ラベルを剥がそう

最近ダイバシティマネジメントという言葉が目に付く様になってきた。
「ダイバシティ」即ち組織に多様性を持たせようという話しだ、対する言葉は単一性、画一性であろう。
表面的には「女性や外国人、障害者などを義務的に採用するのでは無く、もっと積極的に活用していこう」という事で、もう少し深くなると、組織が多様な価値観を認め活かしていこう。という事だ。前回書いた、「天才を見つけて、活かす」とも通じる事で、この事自体は全く賛成であるし、その通りだと思う。

企業組織が多様性を求めるか、画一性を求めるかは確かにマネジメントの問題だ、もの凄く色々な要素をすっとばして言ってしまうと、経済が右肩上がりで、大量生産、大量消費、で製品サイクルも長いという古き良き時代の様な状況であれば、画一的に。
今の様な時代には多様性を求めるマネジメントが必要である。

しかし、また妙なカタカナ言葉が出てきたな。とも感じる。
普通に「多様な価値観を認め組織として活かしていこう」と言えばいいじゃない?
こういうカタカナ言葉が出てくる時は必ず「これでひと山当てよう」と目論んでいる連中がいると感じてしまう。小生はよっぽどひねくれているのであろうか?

一方、社会に目を向けると、相変わらず格差ネタでてんこ盛りである。「元派遣社員の40歳が○○○」とか、こんなニュースが毎日の様に飛んでくる。派遣社員やフリータ、期間従業員。如何に悲惨な状況で、社会が如何に病んでいるかを伝えてくる。

格差を作っているのは一体誰だ?政治家であろうか?経営者であろうか?それとも国民そのものなのか?

職業人生を一生飲食店のアルバイトで過ごしたとしよう。確かに金銭面では楽では無いだろう。贅沢はできない。
しかし、毎日接客に励み、笑顔を絶やさず、真面目にコツコツと働いている。お客さんに喜んで貰おうと工夫している。一体どうして、この人の人生を否定できるのか?

人は死ぬために生きる。死があるから、生がある。死がなければ生きる事を実感できない。
死は誰にでも平等に訪れる。そして死ぬ時に、お金も、地位も、名誉も、決して持っていく事はできない。
即ちその人の人生が豊かなものであったか?貧しいものであったかは、本人自身しか決めれれない。
大会社の社長だったから幸せだった。と周りの人は言うかもしれないが、本人は苦悩の中で死を迎えたかもしれない。

格差社会を声高に訴える連中は、派遣社員やフリータの人生を簡単に否定する。正社員と同じ仕事でも給料は少ない。経済力が無く、不安定で、社会的地位が低いので結婚できない。書類が通らず正社員になる事はできない。クビを切られれば住居も失う。惨めで、差別され、悲惨な生活を送るしかない。大企業の正社員こそがちゃんとした人生を送れると煽り立てる。
これらを訴えるのは、同情だろうか?憐れみだろうか?社会正義からであろうか?
決してあなたの人生は素晴らしいですね。とは言わない。「負け組」だと表現する。大手企業をリストラされアルバイトに(成り下がった)人を(転落人生)だと表現する。

素晴らしい能力を持った人が派遣社員として自立しながらステップアップしてキャリアを積んでいく。本来であれば、その様に鍛えられた人材は企業としても歓迎される筈だ。しかし「負け組」「二度と這いあがれない」と世の中から言われれば、有能な人材がその道を選択する事はしないだろう。
有能であっても「派遣社員のレッテル」を張られれば「負け組」と表現されるのであるから当然だ。
新卒、正社員として固定的な仕事を低い次元で、上司に気を使いながら、くだらないと思いながらも何年も我慢して正社員にしがみつく。結果、国全体の生産性は下がる。

小生は良くある二元論「社会責任論」「自己責任論」を展開するつもりは全く無い。と、いうより馬鹿げている。社会と個人の双方が相応に努力すべき問題で、なおかつ社会というのは個人の集合体なのだから。

しかし、格差社会を声高に叫ぶ連中は、その対象者に「絶望」しか与えない。「こんな国だから・・・こんな社会だから・・・どうしようもない」と。

「希望」を与える事はしない。いや与えてはいけないのかもしれない。この手のマスコミや評論家やらは自身が「勝ち組」でないといけないからだ。「負け組」というレッテルを張るには、「勝ち組」のレッテルも必要だ。自身が高給で、社会的地位が高く、安定していおり「勝ち組」であるからこそ、それを持たざる者に「負け組」レッテルを張り「絶望」を与える事ができる。

あるマスコミから派遣切りされた人が、マスコミの正社員にこう言う。
-「貴方は、私の様な、下賤で猥雑で低次元な仕事では無く、社会的な意義も高い仕事に就かれて素晴らしいですね。」

大手マスコミ正社員君はなんて答えるだろうか?
-「仕方がないですよね。こういご時世ですし、辛いと思いますが「良い仕事」につける様に頑張って下さい。」

違うのではないか?本来はこう答えるべきだ。
-「それは私こそが貴方に言う言葉です。」

人生も、生活も、職業も、人が人に対して、優劣を付ける事ほど傲慢な事はない。

そういえば、最近、石原都知事が盲目のピアニストの辻井さんに「もし目が見えたら何が見たいですか?」と記者が質問していた事に憤慨していた。人権、差別撤廃を殊更声高に叫ぶ、朝日新聞の記者がだ・・・そもそも記事のタイトル「盲目の」とか付ける事自体に非常に違和感を感じる。そこには「健常者より劣る障害者が、素晴らしい業績を残すなんて凄い」これは、記事として注目される=商売になる。という本音が煤けて見える。

ダイバシティマネジメントなんてカッコいい言葉使って商売している連中。
まさかとは思うけど「女性や外国人は積極的に採用しているけど元派遣社員は書類選考すら通らない」なんて事はしてないよね。
もちろん純粋に能力として評価できなくて採用しないのは健全だが。

少なくとも小生は「格差を無くそう」とか「ダイバシティマネジメント」とか「友愛?」とか、わざわざ改まって表現して訴える人を信用したくない。

本当の多様性は、真の自由から生まれる。
それは自身の心から、他人から勝手に張られたラベル(レッテル)を剥がし、自身の正義、誇り、使命の為に生きようと考える事から始まる。自身の価値観が、自分自身によって評価できれば、他人にから張られたラベルは気にならなくなる。
それは、同時に他人にラベルを張り付けて評価する事の愚かしさを知る。他人の価値観が自分の価値観と異なる事を自然に受け入れられる様になる。

さあ、前を向いて歩いていこう。絶望も希望も自分の中から生まれる。きっとね。

2009年6月15日月曜日

何故、キャンペーンが上手くいかないのか②

前回の続きを書く前に、前回の補足をしておきたい。
セブンアイ会長の鈴木敏文氏の「周りが反対する事をやると成功する」と、言うのは実に罪作りな言葉だと思う。
何故なら「周りが反対する事」は実際には殆ど失敗するという現実があるからだ。

一番多いのは、「空想、妄想企画」というものだ。一発当てて成功したオーナ経営者や、妙な社内政治で権力を握ってしまった人物などが企画したものに多い。

この手の人物が企画した「空想、妄想企画」は殆ど個人的な願望に近い事が多く論ずるに値しない。しかし、実際にはそういう企画?が企業の外を見ても世の中にはあちらこちらにある。例えば我が国は昔、「米国と戦争しても勝てる」と企画して、大惨事を招いた。「北朝鮮は地上の楽園」キャンペーンなんていうのもマスコミが企画した事もあった。
いずれもトンデモ企画だが、実際に止める事はできなかった。
近年でも「ゴニョゴニョ・・・」(いらない人に睨まれない様に隠しておきます)

企業の中で権力者から「空想、妄想企画」が提示された時、担当者が取れる行動は残念ながら
・「やったふりをして忘れるのを待つ」
・「傷口が広がらない様に少しだけやって、失敗の報告をする」
・「諦めるまで付き合う」
位しか選択肢が無い。自己顕示欲の強い権力者を正面から否定する時は、転職先を見つけてからにした方が良い。間違えても「本気なら伝わる筈だ」とか考えない事だ。

今回、失敗企画(キャンペーン、戦略)が生まれるメカニズムを考察する前提は、あくまでも有能で勤勉なマーケッターが何故、失敗企画を生み出してしまうのかに着目したい。

前回、企画を立案する際に重要なのは「顧客起点」で「顧客心理」を読む事だと書き、同時に酷く難しいとも書いた。
その理由はの

第一に、そもそも、その人間自身に優れた洞察力が必要となる。
第二に、「顧客起点」で「顧客心理」から「優れた洞察力」を持って企画したものは、社内で理解されない。
第三に、投資対効果を示せない。

上記、三点が主たる要因である。

第一の要因は、完全に個人の能力の問題である。鈴木敏文氏の本に出てくる様な事例を、もし小生が「顧客起点」で「顧客心理」を考え企画したとして、同じ様な企画を考え出す事が出来たであろうか?果たして、難しい。
こればかりは、ロジックを幾ら学んだ処で全く難しい。戦略を立てる際は良くコンサルファームの人間が言う様に「ファクト」(事実)とロジック(理論)が重要である。しかし残念ながら、「ファクト」(いや、あえて「事実」と書こう。)
「事実」なんて言うモノは、世の中で、起きている事全てが「事実」であって、それ自体は戦略立案にあたっては対象とならない。例えば顧客起点で「事実」を見た時に、「人間は大人になると、オナラを「すかしっぺ」で出来る様になる」と、ある研究でこんな「事実」があったとしよう。あなたのビジネスの戦略立案に役立つであろうか??
いや、今日、私の頭に寝ぐせが付いているのも「事実」だし、貴方が電車のドアに挟まれたのも「事実」だ。

そういえば「ITPRO」という日経のIT系ネットメディアで「マスゴミ」論が盛り上がった事がある。読者のコメントの多くが、マスコミは自分の主観など加えず、客観的な「事実」のみを伝えれば良いというものであったが、例えば麻生総理が「漢字を良く読み間違える」というのは「事実」であろう。「マスコミ」が「マスメディア」であり、スポンサーの受けが良く視聴者、読者の感心、興味を引く為に「事実」を伝える存在である。と割り切ればそうは腹も立たない。
しかしマスコミがおかしな事に「正義」とか「ジャーナリズム」なんて言葉を使うから、おかしな事になる。

麻生総理の漢字誤読という「事実」よりも、世の中に伝えなければいけない「真実」は一杯ある筈だ。「事実」にフィルターを掛ける事が「真実」では無い。あくまで個人を排して「事実」を積み上げて初めて「真実」にたどり着く。それを伝える事だ。政治や経済事件の度に起こる不自然な自殺、チベット、核、パチンコ、etc・・・伝える側のイデオロギーはどうでも良い。ネット上に転がる「噂や野次馬報道」では無く、プロとして、とことんまで「事実」を洗って「真実」に辿りつく姿勢。
そういう「骨太のジャーナリズム」と「マスメディア」は切り離して考えるべきだ。

ちなみに、岐阜県の裏金をデッチ上げた番組は「真相報道」の冠がついている(笑)、その一方で「骨太のジャーナリズム」は、必ずしも社会に許容されないというというのも、また「事実」だ。

話が大きく逸脱してしまったが、この事は企業内で起こる第二要因にも非常に近い。経営は突き詰めれば「ソーシャル・サイエンス」だと思う。

話を第一要因に戻そう、「ファクト」をどれだけ掴んでも、知っていても、「ロジック」を如何に学習しようと、最初にひらめく「仮説設定」がトンチカンな物だと全く意味が無いのだ。最初に立てた仮説から関連する「ファクト」を「ロジック」に掛け、頭の中で論理構築していく。当然論理構築していけば、顧客価値はあるか?自社のリソースは?同種の価値を提供する競合は?(3C)(笑)
価格は?製品サービスは?流通は?宣伝は?(4P)(笑)
といった様にフレームなんて重視しなくても、普通に検討材料になる。フレームはあくまでも頭の中の整理の為に使うのだが、最近やたら多いのが、フレームを知っている事が自体が、戦略家やコンサルタントだと勘違いしている御仁だ。
では、どうすれば、正しい仮説設定ができるのか?残念ながらこれは「洞察力」と「経験」から導きだされる一種の「勘」の様なもので、ある程度の処までは訓練を重ねれば磨かれるかもしれないが、本質的には個人の資質というより他にない。

第二要因である、
「顧客起点」で「顧客心理」から優れた洞察力を持って企画したものは、社内で理解されない。
のは、ありきたりな言葉で表すのなら「ニーズ」では無く「ウォンツ」レベルで洞察されている。「ウォンツ」即ち「見えざる欲求」は表出化していないからこそ「ウォンツ」なのである。「ウォークマン」の話しは有名だし知っている方も多いだろう。「ウォンツ」型製品企画の事例として有名だが、当然この様な製品は当初全くと言って理解されない。
必ず「そんなもの売れっこない」という反応を得る。
ちなみに「ウォンツ」は「シーズ」と近い。技術シーズは単たる技術追及の結果では無く、どこかで「ウォンツ」を捉えている場合が多い。「ニーズ」を良く知っている人間ほど、シーズを否定してしまう。

製品に限らず、戦略、キャンペーンといった企画を検討する際に、表出化していない「見えざる欲求」に対応したものは「ニーズ」を知るものに簡単に否定されてしまう。

鈴木敏文氏は純然たる巨大グループの会長職である。ウォークマンの企画を思いついたのも故盛田氏だ。一介のサラリーマンにしか過ぎないマーケティング担当者が、いつも「そんなのダメに決まっている」と言われる企画ばかりを提案していたらどうなるか?通常、この様な人物のサラリーマンとしての栄達はかなり難しい。
これが外部のコンサルタントであればどうか?クライアントからその様な反応をされれば契約を切られてしまう。内部の人間以上に本質的な提案が難しい事を、逆にクライアント自身が認識しておいた方が良い。

鈴木氏の場合は、サラリーマンからの出世であるが、市場への洞察力も長け、且つ社内を動かす政治力も発揮できる様な人材は、天賦の才に恵まれた、一部の人間だとある程度認識しておいた方が良い。

第三要因に関しては、第二要因とも重なるが「ウォンツ」レベルでの企画は、当然「見えざる欲求」である為、投資対効果を明確にできない。「当たるも八卦、当たらぬも・・・」の世界。この問題は非常に重要で且つ、解決策が見えない。大きなリスクを求めている。統計データや、モニタリング調査、テストマーケをある程度の精度で行う事によってリスクは低減できる。
しかし、リスクを恐れ、如何に費用対効果が確実なものであるか精査すればする程、時間と労力を失う。更に一番問題が多いのが、費用対効果を重視するあまり、企画そのものが、常識的にリータンが求められる範囲(もしくは開発陣やデザイン陣)に妥協を重ね、結果無意味なものになってしまうケースも多い。


以上、三点の要因を考えた時、小生はある種の絶望を覚える。天賦の才に恵まれているとは思えないからだ。
しかし、企業組織は多くの従業員を抱える。天才的な企画力を持ち、且つ社内政治に長けた人材はそうそういないだろう。しかし、逆にどちらかを持った人間であれば、比較的見つけ出す事ができるかもしれない。
もちろん、前者は無いが、後者(社内政治)だけに長けている人物には気をつけなければならない。

組織は必ず、前者を潰す方向に作用する。組織というのは、自らを「常識」に縛り付け、それを逸脱しようとする物を排除する。
何故なら、「非常識人」は「常識人」にとって自分達の居心地の良いコミュニティの破壊者だからだ。ヤクザやギャング、軍隊でもそうだ。

この点に気づき「組織」を運営できる企業は本当に少ない。今のソニーを見れば良く分かるだろう。

「天才を育てようよするな、見つけ出し活かす様にせよ」

今回はこんなところで止めておこう。