2009年6月18日木曜日

ラベルを剥がそう

最近ダイバシティマネジメントという言葉が目に付く様になってきた。
「ダイバシティ」即ち組織に多様性を持たせようという話しだ、対する言葉は単一性、画一性であろう。
表面的には「女性や外国人、障害者などを義務的に採用するのでは無く、もっと積極的に活用していこう」という事で、もう少し深くなると、組織が多様な価値観を認め活かしていこう。という事だ。前回書いた、「天才を見つけて、活かす」とも通じる事で、この事自体は全く賛成であるし、その通りだと思う。

企業組織が多様性を求めるか、画一性を求めるかは確かにマネジメントの問題だ、もの凄く色々な要素をすっとばして言ってしまうと、経済が右肩上がりで、大量生産、大量消費、で製品サイクルも長いという古き良き時代の様な状況であれば、画一的に。
今の様な時代には多様性を求めるマネジメントが必要である。

しかし、また妙なカタカナ言葉が出てきたな。とも感じる。
普通に「多様な価値観を認め組織として活かしていこう」と言えばいいじゃない?
こういうカタカナ言葉が出てくる時は必ず「これでひと山当てよう」と目論んでいる連中がいると感じてしまう。小生はよっぽどひねくれているのであろうか?

一方、社会に目を向けると、相変わらず格差ネタでてんこ盛りである。「元派遣社員の40歳が○○○」とか、こんなニュースが毎日の様に飛んでくる。派遣社員やフリータ、期間従業員。如何に悲惨な状況で、社会が如何に病んでいるかを伝えてくる。

格差を作っているのは一体誰だ?政治家であろうか?経営者であろうか?それとも国民そのものなのか?

職業人生を一生飲食店のアルバイトで過ごしたとしよう。確かに金銭面では楽では無いだろう。贅沢はできない。
しかし、毎日接客に励み、笑顔を絶やさず、真面目にコツコツと働いている。お客さんに喜んで貰おうと工夫している。一体どうして、この人の人生を否定できるのか?

人は死ぬために生きる。死があるから、生がある。死がなければ生きる事を実感できない。
死は誰にでも平等に訪れる。そして死ぬ時に、お金も、地位も、名誉も、決して持っていく事はできない。
即ちその人の人生が豊かなものであったか?貧しいものであったかは、本人自身しか決めれれない。
大会社の社長だったから幸せだった。と周りの人は言うかもしれないが、本人は苦悩の中で死を迎えたかもしれない。

格差社会を声高に訴える連中は、派遣社員やフリータの人生を簡単に否定する。正社員と同じ仕事でも給料は少ない。経済力が無く、不安定で、社会的地位が低いので結婚できない。書類が通らず正社員になる事はできない。クビを切られれば住居も失う。惨めで、差別され、悲惨な生活を送るしかない。大企業の正社員こそがちゃんとした人生を送れると煽り立てる。
これらを訴えるのは、同情だろうか?憐れみだろうか?社会正義からであろうか?
決してあなたの人生は素晴らしいですね。とは言わない。「負け組」だと表現する。大手企業をリストラされアルバイトに(成り下がった)人を(転落人生)だと表現する。

素晴らしい能力を持った人が派遣社員として自立しながらステップアップしてキャリアを積んでいく。本来であれば、その様に鍛えられた人材は企業としても歓迎される筈だ。しかし「負け組」「二度と這いあがれない」と世の中から言われれば、有能な人材がその道を選択する事はしないだろう。
有能であっても「派遣社員のレッテル」を張られれば「負け組」と表現されるのであるから当然だ。
新卒、正社員として固定的な仕事を低い次元で、上司に気を使いながら、くだらないと思いながらも何年も我慢して正社員にしがみつく。結果、国全体の生産性は下がる。

小生は良くある二元論「社会責任論」「自己責任論」を展開するつもりは全く無い。と、いうより馬鹿げている。社会と個人の双方が相応に努力すべき問題で、なおかつ社会というのは個人の集合体なのだから。

しかし、格差社会を声高に叫ぶ連中は、その対象者に「絶望」しか与えない。「こんな国だから・・・こんな社会だから・・・どうしようもない」と。

「希望」を与える事はしない。いや与えてはいけないのかもしれない。この手のマスコミや評論家やらは自身が「勝ち組」でないといけないからだ。「負け組」というレッテルを張るには、「勝ち組」のレッテルも必要だ。自身が高給で、社会的地位が高く、安定していおり「勝ち組」であるからこそ、それを持たざる者に「負け組」レッテルを張り「絶望」を与える事ができる。

あるマスコミから派遣切りされた人が、マスコミの正社員にこう言う。
-「貴方は、私の様な、下賤で猥雑で低次元な仕事では無く、社会的な意義も高い仕事に就かれて素晴らしいですね。」

大手マスコミ正社員君はなんて答えるだろうか?
-「仕方がないですよね。こういご時世ですし、辛いと思いますが「良い仕事」につける様に頑張って下さい。」

違うのではないか?本来はこう答えるべきだ。
-「それは私こそが貴方に言う言葉です。」

人生も、生活も、職業も、人が人に対して、優劣を付ける事ほど傲慢な事はない。

そういえば、最近、石原都知事が盲目のピアニストの辻井さんに「もし目が見えたら何が見たいですか?」と記者が質問していた事に憤慨していた。人権、差別撤廃を殊更声高に叫ぶ、朝日新聞の記者がだ・・・そもそも記事のタイトル「盲目の」とか付ける事自体に非常に違和感を感じる。そこには「健常者より劣る障害者が、素晴らしい業績を残すなんて凄い」これは、記事として注目される=商売になる。という本音が煤けて見える。

ダイバシティマネジメントなんてカッコいい言葉使って商売している連中。
まさかとは思うけど「女性や外国人は積極的に採用しているけど元派遣社員は書類選考すら通らない」なんて事はしてないよね。
もちろん純粋に能力として評価できなくて採用しないのは健全だが。

少なくとも小生は「格差を無くそう」とか「ダイバシティマネジメント」とか「友愛?」とか、わざわざ改まって表現して訴える人を信用したくない。

本当の多様性は、真の自由から生まれる。
それは自身の心から、他人から勝手に張られたラベル(レッテル)を剥がし、自身の正義、誇り、使命の為に生きようと考える事から始まる。自身の価値観が、自分自身によって評価できれば、他人にから張られたラベルは気にならなくなる。
それは、同時に他人にラベルを張り付けて評価する事の愚かしさを知る。他人の価値観が自分の価値観と異なる事を自然に受け入れられる様になる。

さあ、前を向いて歩いていこう。絶望も希望も自分の中から生まれる。きっとね。

2 件のコメント:

考芳 さんのコメント...

最も多様性を認めないのは、実はマスコミなのです。彼らは信用できません。

bukubukumaru さんのコメント...

考芳さん

そうですね。企業でも、どうも経営理念にそういう言葉をいれていたりすると実態は真逆というケースが多い様に思われます。