2009年4月6日月曜日

不況を乗り越えるのは

未曾有の大不況である。
小生のまわりでも失業者が増えてきたし、回りの企業に聞いても景気の良い話しは何ひとつない。

小生自身はサブプライムローンの問題がテレビ、新聞に取り上げられ始めた時期、2007年の5、6月位であったろうか?この時点でのこれは相当にまずいことになるのではないかととの予感はあった。この頃の経済アナリストなどの専門家の認識は、日本での影響は限定的という楽観的な見方ばかりであったが、小生は金融や、経済の専門家では無いが米国の個人消費が世界のGDPの約3割を締め、またその消費が個人の借金によって支えられている事位の知識はあった。その流れが逆流し始めると大変な事になるぞ。という単なるカン見たいなものであるが、当時勤めていた会社の社内情報共有システムにもその事を書きこんだ。
即ちサブプライムローンの焦げ付きによって、貸し渋りが発生、通常のプライムローンであってもなかなかローンが組めなくなる。景気の循環が悪くなり、リストラや賃下げ、失業者の増加が起きる。このマイナス循環が発生する事によって、借金して「お買いもの」をする米流の個人消費が、出来なくなってしまうのではないか?自動車や家電といった日本を支える輸出産業は北米市場依存度が高い。開拓しつつある新興国においても、その発展が北米への輸出に頼っている以上、これは相当にマズイ事になるのではないか?というのが小生が考えた懸念である。

(ちなみに2008年末の時点で、某有名経済紙の2009年の経済予想で、著名アナリストが未だにデカップリンク論を強弁しているのは閉口した。国内の自動車販売は今回の問題が大きくなる以前から冷え込んでいたというのがその論拠の様に書かれていた記憶があるが、ここまでくると読んでいるこちらが気恥ずかしい。)

2007年末から徐々にこの問題の扱いは大きくなってきたが、当の米国の個人消費はさほど落ち込まなかった。米国の個人消費を占う年末のクリスマス商戦におてても、小生の想像よりは落ち込みが少なかった。伸び率でいうと確かに低調であったが、それでも前年比で3.7%の増である。
米国人というのは、どこまでも楽観的、前向きな人種だなと変な関心をした覚えがある。

年が明けて、米国が利下げなどの対応を行うにつれ、小生もこれはしばらくすると落ち着くかな?と思えたが、去年末私が懸念した実態経済の落ち込みが先では無く、リーマンブラザースの破たんという形で金融市場の方が一気に吹っ飛んでしまった。
小生は実態経済の悪化から始まって金融収縮が起こると読んでいたが、全くの逆であった。金融が先に吹っ飛び、消費どころでは無くなった形だ。その意味で本当の不況はこれからでは無いかと思う。金融破綻→米国個人消費市場→日本の輸出産業の落ち込み→輸出産業を取り巻く国内サービス業の落ち込み(今はこの段階だと言える)、その次に来るのは、流通小売。とりわけ、スーパー。これは国内の個人消費マインドが完全に冷え込んでいる事を意味する。外需も内需も駄目であれば、良くなる要素はどこにもない。

専門外の慣れない話しはここまでとして、今後の実態経済の方向性と、景気向上策として日本版「グリーンニューディール」を行うべしとする向きが多い。環境技術で世界をリードしているのは日本だろう。その強みを伸ばす方向性は全く否定しない。

しかし、違和感もある。ハイブリッドカーへの買換えの支援をして、みなが車を買い換える事が本当に、エコかとどうか(笑)?
という議論ももちろんあるが、良くいう「環境立国」が本当に日本の目指すべき長期目標となりうるのかという点である?
自国の強みを活かして、尚且つ環境に良い社会を目指す事に何の違和感があるのか?と言われれば、それは「変革」とい言葉があてはまる。極論すれば、高速道路やダムを作る会社を儲けさせるか?環境技術を持つ製造業を儲けさせるか?の選択をした所で、日本という国家のシステムは何一つ変わらない。

今回の世界同時不況は、資本主義の限界を突き付けた面が多分にある。小生はこの不況を抜け出す国は、国家システムそのものを次世代型に「変革」できた国では無いかと考える。

ひどく具体的な話しで言うならば、ある駄目駄目総合電気メーカがあるとする。赤字は7000億にもなる。旧態前として変化せず、経営陣は自己保身しか考えない。縦割りが酷く効率化できない、部門の利益しか考えていない。技術はあるが市場に対して画期的な新商品も出せない。若手は古株に抑圧されて自由にできない。
例えばこんな会社が、これからは○○という分野のニーズが高くなりそうだから、今後はその分野の研究開発に力を入れて主力製品を変えていこう(笑)。
とやっただけで、この会社が今後飛躍できるのか? 良くって現状維持だろう・・

では何を目指せば良いのか?小生は今こそ「IT立国」を目指すべきだと愚考する。
IT産業なんて存在しない!と以前書いた人間が何を言っているのか?と思われるかもしれないが、21世紀は、環境技術の時代では無く、情報技術の時代だと思っている。それは情報スーパーハイウェイ構想(古っ!)とか電子政府を目指すとかそういう話しでは無い。

小生は、ネットの活用度は高い。気になる情報、知りたい知識はネットから得る。もちろん新聞や本といったソースも積極的に使ってはいる。しかし何時でも情報を引き出せる世の中になった変化は計りしれない。社会人、私人としてもこれは相当な変化をもたらしてきた。しかし社会システム自体はこの変化についていけていない。

一例を挙げよう、今試験会場に、インターネット接続可能なPCの利用が許可されたら、どうなるだろうか?試験の内容にもよるだろうが、皆100点を取るだろうか?おそらく中には50点しか取れない人もでるだろう?その差は答えを知っているかどうか(暗記している)の点差では無く、如何に上手にググれるか?の勝負になると言って良い。

この事が何を意味しているのか?あくまでも極論としてだが、記憶力コンテストだった今までの試験、受験というのは、批判はありながらも、物事を知っているor知らないという価値が実社会においても評価にもなるという事の正当性があった訳だが、現代の実社会において、それで人間の能力を測るのに全く無意味になってしまっている。
(本音ではまじめに「努力」が出来る人間か否かのコンテストでしょうが・・)

それよりも如何に、正確に情報を引き出すかのリテラシーを持った人間の方が遥かに評価ができるという事だ。(あくまで暗記 vs Google使いを、一視点軸で見ればだが)

もちろん学校教育におていインターネットの上手な使い方をしっかり教るべきという話しではない。
情報は何時でも、正確にネットから引き出せると仮定した時に必要な要素な何か?情報を記憶するのに長けている。情報を引き出すのに長けている。の問題では無く、その情報をもとに「思考」し本質的な解を求め行動できるかどうかが問われるのではないのか?

残念ながら日本の教育において「思考」する訓練というのは殆ど行われていない。これからの実社会において、個々人の思考力の差が、国家の力となる筈である。これほど情報のインフラが劇的に変化しているにも関わらず、相変わらず教科書に載っている内容を、如何に暗記するかの教育をやっている。日本人はただでさえ言語というハンディがある。情報のインフラが世界中で繋がり整備されてもそれを活用するのに、スタート時点でだいぶ遅れをとってしまう。

時間は掛るかもしれないが、言語の壁は現状の延長戦上にある教育もしくは、ITの進歩によって解決していく可能性はある。しかし情報を活用し活かす「思考力」に差がでれば、これは絶望的に国家の力を衰退させてしまう。

それから、政治。今の政治システムは本当に民が主体だろうか?議会制民主主義自体、見直す時期には来ていないか?政党の必要性が本当にあるのか?官僚の在り方は?それは、自民党憎し、官僚憎し、社保庁憎し、という次元の話しではない。様々な悪癖を、個々に起きた事象、現象の表面を捉え、悪い、憎い、腹を切れと合唱し、法律で規制する事が本質的な物事の解決になるだろうか?その本質はシステム自体が引き起こしているのでは無いのか?インターネットの発展は直接民主主義への可能性だって充分検討余地ができる筈だ。

一遍を見れば、企業においてはITを活かす事で、既存の縦割り型機能別の弊害を解消し、フラットで迅速な意思決定を可能にし、競争力を高めている企業は幾らでもある。もちろん国家政治と企業を並列で捉えられない面は多い。しかし表面的に現れる現象、事象は個々の能力や、モラールによって引き起こされているのでは無く、起こるべくして現象、事象を引き起こしている本質的なシステムの問題が必ず存在する。

この点においては安倍前首相の「戦後レジュームからの脱却」というテーマはひどく現実的な解であった様に思う。しかし多分に戦後政治へのアンチテーゼであり、何を目指す為に脱却するのかの論点が薄かったのと、自身の政治指導力に関しての疑問が残った感も否めない。

国家を日本株式会社と見た場合、今大変な危機にある事は言うまでもない。企業の状態を示す有名な言葉に「ゆで蛙」という言葉がある。本当にそうであるかは置いておいて、沸騰したお湯の中に蛙を放り込むと、当然ビックリして飛び出そうとする。しかし、水を浸した鍋に蛙を入れ段々と温めて行くと、蛙は沸騰するまで気づかずに茹であがって死んでしまう。という現象を企業の状態に例え、このままだと自社は危ない。何とかしなくてはと。心では思いつつ行動に移せない状態で、ちっとも変革できない様を示している。
日本は今まさに茹であがろうとしているのではないか?小生は常にそんな危機感を抱いている。

ハーバード大のクリステンセン教授が有名な著書「イノベーションのジレンマ」で、組織の能力は、資源(人とかお金)、プロセス、価値基準に従うと示している。資源は容易に移す事が可能だが、プロセスは価値基準によって最適化される為、破壊的イノベーションを生みだすには、既存組織に優秀な人材やお金を幾ら投入した所で無駄で、全くの別組織を作るか、全く別の価値基準をその組織に与えるしかないと示している。この事は会社勤めの経験者であれば誰もが納得する話しであろう。小生もサラリーマン時代ベンチャー企業に在籍した時期がある。その会社は創業から10年足らずで一部上場を果たす程の勢いであったが、突如逆風に曝された。(もちろん実際は突如では無く完全に論理的に説明できるのだがここでは割愛する)
しかし一度成功を味わった価値基準は容易には変革できない。同書でトヨタはプロセスを絶えず変革する事で強さを得たという説明がある。トヨタは勿論、現場からのQCサークルによる「カイゼン」によってプロセスを磨きあげてきた。
一方、組織の持つ価値基準はどうであろうか?ハッキリいってこれはを変えるのはボトムアップでは無理だ。出来るとしたら革命でありクーデターが必要になる。必ずトップダウンで行う必要がある。

歴史は国家システムの変革は常にこの二点(革命か破壊的な指導者)によってもたらされている。

しかし、フラット化した国家の構築ができれば(グローバルなフラット化では無く)真に民衆による政治が可能になる筈だ。確かにそのシステムを最初に築くには、ある程度上記二点の要件を満たす必要性がある。
しかし一度、それを築ければ自律的組織となり、常に適切な自己変革ができるであろう。

その為に絶対条件となるのは、正確な情報を引き出すリテラシーと、その情報から自ら思考できる「思考力」の二点に他ならない。
前者はネット社会において否応なしに飛躍的に高まって行くだろう。しかし後者はほっておいても育たない。またこの二点が育って且つ国家システムがそれに応じられない時は、国民にフラストレーションのみが高まるだけであろう。
今こそIT立国を目指せ!それは21世紀型の国家の形である。
(長くなったので後半はかなり端折ったので飛躍し過ぎだろう。またの機会に細かく説明したい)

0 件のコメント: