2009年2月24日火曜日

侍ジャパンと直江兼続と農耕民族

WBC盛り上がっているのは日本だけ?と報道がありつつも、練習試合とかはやっぱりすごく注目されていて、まあ、いいじゃない日本だけで盛り上がっても、、またチャンプになれるなら、世界一なんだし素直に応援しようと思う今日この頃。

しかし「侍ジャパン」てネーミング、私的にはとっても頂けない。野球に限らず、日本チームや日本人選手が世界を相手に戦う時にマスコミは「侍」とか「武士道」とか付けるの大好き。どうも体格、体力では負けていても、精神力でカバーするとかそういうマインドの象徴なんだろうけど、肝心の試合を見ていると、どうも普通に「体力」でも「技術」だけでなく「精神力」でも負けてるんじゃ?むしろ「体力」や「技術」は遜色なくても「精神力」で負けてるんじゃ?と思う事もしばしば・・・

一般的な見方をしてしまえば、やっぱり他の国の選手の方がハングリー精神旺盛だったり、世界で戦う事が標準で、逆に日本チームや日本人選手は意識しすぎなんじゃないの?と思う。北京五輪の野球の結果をみても、他国に比べ圧倒的な高額年俸をもらうプロ選手連合が高級ホタルに泊ってメダルも無しの結果。

「侍」とか「武士道」とかからイメージする、与えられた環境や状況に左右されず、自らを犠牲にしても孤高に己の信じた正しい道を突き詰める姿とは正反対な気が印象を持つ。

今回、「侍」なんてつけて、もしWBCで結果が出ないと、相当に叩かれるでしょう。正に「ハラキリ」状態(原切り)
でも現実問題、腹は切れないので、寄せた期待と高揚感(日本の野球は本来強いんだ)の行き所として、ハングリー精神が足りなかった。環境適応能力(ボールがとか審判が)などの分析をして見せる。

ビジネスの世界では、「侍魂」や「武士道」はあまり聞かない。「侍商売」、「武士道経営」じゃ如何にも上手く行きそうもない。それより、むしろ「日本は農耕民族だから・・・」という表現を良く使う。「・・・」の所は、結局、「気を使って大人しい」「和を重んじるので我利我利亡者にはなれません」「他人を蹴落とす様なやり方は出来ません」「すべて契約ありきのドライな関係では仕事しません」と言った表現が入るのだろうが、先の北京五輪の結果とかと照らし合わせると、戦う前は「侍」「武士道」で、結果が出ると「農耕民族」に様変わりしてしまうのでは?と勘ぐってしまわなくもない。

もともと江戸時代の士族は大体人口の1割程度だったらしい。一番多いのは当然「農民」。しかも一割の武士が皆、言われている様な侍魂や武士道の持ち主だったかというと、それも個人的にかなり疑問が残る。もちろん教養としては備えていただろうが、それはあくまで教養、知識の世界であって本当にそんなメンタリティで行動していたとは思えない。仕事だって「武士」といっても所謂「役人」であって、チャンバラをやっていた訳ではないだろう。

逆にそういう世の中だからこそ「大石内蔵助」あたりの奇特な行動が「武士の鑑」的な扱いを受けるのだろう。全員がそうであるならば注目はされない。
幕末においても、多分に小説などの影響はあるにせよ、そもそもの武士であった「旗本」あたりはとっとと幕府を見捨ててしまい、譜代大名の象徴ともいえる井伊家なんかが真っ先に官軍に寝返りする始末で、農民とかが集まった新撰組あたりの方がよっぽど「武士らしい」行動をとったという皮肉から見ても容易に想像がつく。

戦国時代は「主を七度変えてこと一人前の武士」と言われていた様に、「裏切り」なんて当たり前の世界。だからこその下剋上。その中で今大河ドラマでやっている「謙信」-「景勝」「兼続」あたりは、「義」の精神を自身の行動レベルに落としていたのだから現代的な基準からみれば「武士の鑑」的な人物像かもしれないが、当時としては相当な変わり者だろう。だからそれほど波乱万丈でなくても、なんとかドラマにできるのかもしれない。

新渡戸稲造の「武士道」が、日本が単なる辺境の未文明国で無い事をアピールする為に描かれ、また「ハラキリ」や「特攻」といった行為がアンビリーバブルなジャパニーズの象徴であるとするならば、そろそろ「実はそれは一時期の方便でありまして・・」と素直に認め、実は「侍」-「Samurai-Japan」では無く「農民」-「Noumin-Japan」とした方が、今の時代しっくりくるかなと愚考してしまう。

「農民スピリット」「村社会」が「和」の精神というか自己の所属するコミュニティへの過度の防衛本能を生み、コミュニティの中で和を乱す者を排除する。外からコミュニティを脅かす者は、身を賭してでも排除する。と考えればむしろ「ハラキリ」や「特攻」の精神も説明し易いと思う。
戦国時代や幕末、戦後というのは、今までの体制が崩れた時。すなわちコミュニティも大なり小なりの崩壊を起こした時に、日本人というのは猛烈に新しい価値基準のコミュニティ作りに熱病に侵された如く邁進する。今まで、ついこないだまで、過度なまでに自分達のコミュニティを守る為に支配されてきた価値基準を、全くなかった事の様に振る舞う。

小生は「侍-武士道」⇔「農耕民族」ではどうも相容れない矛盾を感じてしまう。「農夫-村社会-農民道」の方が実は日本人のメンタリティとして主で、武士道は安定を生むための方便と考えた方がしっくりくる。

「昨日まで全然違う事いっていたじゃん!」
「反対する奴は、自分がどうなろうと許さないとか言ったよな!」

「え、あれ!?あれは冗談だよ~ん!っていうか騙されてたんだよね」
「明日からはこっちだよ、こっち!」

ちなみに学生運動頑張っちゃた団塊の世代なんかにも「Noumin-Japan」の精神を感じる・・・
それは、それで、大らかで良い気もするが、どちらにせよ、そろそろ侍とか武士道とかで日本を表現するのは辞めてみては?

少し話しは外れるが、大阪の吹田市の採用試験は5名募集に対して2300名の応募だそうだ。あれ・・・みんな公務員、官僚は悪し!憎し!じゃなかったのかな?これは侍?武士道?それとも農民道?

鋤や鍬を構えた、モンペ姿のイメージキャラクターで「和」の精神で戦いに挑みます。とした方が相手チームに理解不能な畏怖を植え付けられて効果的かも。

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